コミュナル・リビング(Communal Living)を考える

高齢化・人口減少社会における新しい暮らし方、共同体的な暮らし方(コミュナル・リビング)について、さまざまな視点から考察します

コミュニティ

3-1.日本におけるコミュナルリビングの歴史

 コミュナルリビングの系譜を整理するに当たり、第2章でコミュナルリビングのタイプをユートピア型コミュナルリビング、実践型コミュナルリビングに分類し、さらに実践型を宗教型、社会改良主義型、キブツ型、スピリチュアル型、コハウジング型、リタイアメント型タイプに類型化した。

 日本にも古事記に象徴されるように固有の神話やさまざまな宗教が存在している。日本におけるユートピア型コミュナルリビングも最初は、こうしたところから生まれた。安永壽述は、『日本のユートピア思想』(1971)で日本的ユートピア思想の源泉として、出雲系神話に現れる常世や、日本書紀と続日本書紀所収の浦島伝説、仏教に見られる弥勒信仰などと指摘するが、これはユートピア型コミュナルリビングの範疇に属するものと言える[1]

 実践型コミュナルの源泉としては、安藤昌益、権堂成卿、谷川雁などに代表される江戸時代から戦前に至る農本民主主義思想の流れに見出すことができる[2]。安藤昌益(1703-1762)は、江戸時代中期の医師、思想家・哲学家である。著書『自然真営道』において、身分・差別階級を日否定して、全ての者が労働(直耕=農業)に携わるべきという徹底とした平等思想を唱えた。また権堂成卿(1968-1937)は資本主義を批判し、農村を基盤とした共済共存共同体としての「社稷国家」の実現を唱えた。

 欧米で宗教型コミュナルリビングが誕生した契機となったのは、宗教間のセクト対立と同時期に新大陸の発見にあった。社会改良主義型コミュナルリビングは、市民革命と第一次産業革命を契機とする資本者階級と労働者階級の対立解消を主目的に生まれた。

 同時期の日本は鎖国状態にあり、こうした欧米の状況とはほぼ無関係であった。日本において封建社会が解かれ、諸外国のさまざまな情報が流入し、産業資本による発達が始まったのは明治維新以降のことである。国家主導による産業振興から民間資本の蓄積が次第に進み、士農工商という固定化された階層社会ではなく、市民社会内で貧富による階層格差が形成されていたのは明治末期から大正にかけてのことであり、この頃には、次第に日本においても社会主義思想、共産主義思想が次第に広がってきた。こうした時代環境を背景に、日本国内においても徐々にコミュナルリビングが生まれる機運が整ってきた。

明治後期から昭和初期にかけて、日本各地でもいくつかのコミュナルリビングが生まれた。これらのいくつかは(「新しき村」など)、欧米の社会改良主義思想の流れに一定の影響を受けたものであったが、それ以外にも、一燈園や紫陽花邑など、独自の信仰を元にしたコミュナルリビングも誕生した。その意味で、日本におけるこの時期は、宗教型コミュナルリビングと社会改良型コミュナルリビングが同時発生した時期であったとも言えるだろう。



[1] 安永壽延(1971)日本のユートピア思想 コミューンへの志向 法政大学出版局

[2] 奥井智之(199060冊の書物による現代社会論 五つの思想の系譜 中公新書 159

1-7.スピリチュアル型コミュナルリビング

20世紀に入ると宗教型コミュナルリビングや社会改良型コミュナルリビングは減少し、代わって生まれてきたのが、独特の精神世界への傾倒や終末思想を元に共同生活を始める動きであった。こうした萌芽は1960年代になると、体制への反旗を翻す当時の若者を中心としたヒッピー・カルチャーやインド哲学への興味と結びつきスピリチュアル型コミュニティ・リビングを各地に生み出していった。

「ドロップ・シティ(DROP CITY)」(1965-1973)や「モーニング・スター(MORNING STAR)(1966-1972)は、ヒッピー・コミュニティの代表事例である。ドロップ・シティは1965年にカンサス大学とコロラド大学の学生がコロラド州南東のトリンダッド(Teindad)に7エーカーの土地を購入したことから始まる。彼らの目的はアラン・カプロードのハプニングス(ドロップ・アートと同義)で生計を建てることであった。ハプニングスは、ジョン・ケージ、ロバート・ラウシェンバーク、バックミンスター・フラーなどがブラック・マウンテン・カレッジで行った即行パフォーマンスに端を発するものだった。この計画に賛同する人々が全世界から集まり、賛同者たちによってバックミンスター・フラー・ドームが建設された。また別メンバーにより東洋思想、アヴァンギャルド・アート、サイケデリック・アートなどが持ち込まれ、この地は新しいカルチャー・ムーブメントの聖地となったが、運営を司る39名のメンバーには、コミュニティ運営を維持するリーダーシップも意志もなく1973年にドロップ・シティは消滅した。「モーニング・スター(MORNING STAR)」は、ミュージシャン、レオ・ゲットリーブが、彼の別荘をフリー・コミュニティとして解放したもの。一時はヒッピー・コミュニティとして問題化されたものの、ダム、水車、共同購入などの仕組みを持ち込んだ運営が一時期なされたが、72年に土地は売却されてしまった。

「アナンダ・コーペラティヴ・ビラ(ANANDA COOOPERATIVE VILLA)」(1967-現存)「ラマ・ファウンデーション(LAMA FOUNDATION)」(1967-現存)は、ともにインド宗教、瞑想を目的として設立されたコミュナルリビングで今も活動が続けられている。アナンダ・コーペラティヴ・ビラは、「自己実現の教え」の布教を目的とするパラマハンサ・ヨガナンダによるコミュニティ。現在2つのコミュニティが存在し、ひとつは農場。もうひとつは瞑想の隠れ家となっている。メンバーは基本的に独身者が中心である。

ラマ・ファウンデーションは、1967年にSteve Dutrkeeとニューヨークのアーティスト集団が精神と環境価値に基づくコミュニティを創設することを計画したことに端を発する。1967年にTaos115エーカーの土地を購入。翌年、Lama基金を創設した。それ以来、この精神コミュニティは着実に成長し、学校、ビジターのための定期的なセミナー、出版工房などを持つようになった。1969年には元ハーバード大学の教授で後に、ババ・ラム・ダス(Baba Ram Dass)と名乗るリチャード・アルパート(Richard Alpert)が、瞑想アシュラム(すみか)を始めてから、この影響は大きくコミュニティに拡がった。共同労働なども行われるが、コミュニティの主眼は瞑想を通じて高い精神状態を得ることに移っていった。現在においても、このコミュニティは自給しており、来訪者に対して数多くの教育プログラムを提供している。

このようなスピリチュアル型コミュナルリビングは、しばしば映画の中にも登場している。ピーター・フォンダ主演『イージーライダー』(1969)では、バイクにまたがりロサンゼルスからニューオリンズを目指す、途中でヒッチハイカーを乗せ、彼が暮らすコミューンに立ち寄るが、そこではドラッグやセックスに対するフリーダムな環境、一方で怠惰とも言える環境がそこには描かれていた。

 

 

1-3.実践型コミュナルリビングの歴史的経緯とその概要

実践型コミュニナルリビングが最初に登場したのはおおむね17世紀以降のことである。

コミュナルリビング(共同生活)の初期に多数を占めたのは、宗教的自由を求め欧州各地から新天地アメリカに移住した人々による「宗教型コミュナルリビング」であった。次いで、19世紀になると、社会改良主義者のロバート・オウエンやフーリエなどによる「社会改良主義型コミュナルリビング」が生まれた。当初は空想的社会改良主義を唱えるオウエンやフーリエの思想に感化されて設立されたものが中心であったが、その後19世紀後半から20世紀初頭にかけては、無政府主義、共産主義思想などを導入したもの、株式や土地共有システムなど発展しつつある資本主義のシステムを採用した多様な社会改良主義型コミュナルリビングが発生し、これらは最終的に、ソ連のコルホーズ、モシャブ、イスラエルのキブツとして結実していった。その他、フェミニズムや心理学の影響を受けたコミュナルリビングなども登場したが、こうした新たな共同生活体設立の動きは米国では1920年頃を境に一旦静まることになる。

動きが少なくなった理由は、いくつか考えられる。ひとつは世界がほぼ発見され尽くされたことである。マルコポーロの『東方見聞録』やコロンブスによる新大陸発見以来、167世紀の主要西欧各国にとって経済成長のひとつとして大いなる役割を果たしたのが植民地化政策であった。植民地化による領土の拡大は、それに伴い異国の風土や文化が、西洋諸国に舞い込み、エスニック、エキゾシズム文化を産んでいった。また、人々が知り得ぬ世界が辺境の地に存在するという事実が、人々をその地をユートピアとして見立てる衝動に駆り立てた。アメリカに多くの宗教組織が移住したのも、一部には新大陸の発見こそが、実は千年王国の訪れであると信じた人々がいたためであり、オウエンやフーリエのユートピア・コミュニティが本国の英国やフランスではなく、米国で誕生したのもそうした辺境の地=ユートピア願望がその根底にあったからであろう。

しかし20世紀となり、ほぼ世界は発見されつくされた。辺境の地=ユートピアは消滅したのである。そして代わりに新たに生まれたユートピアは、「地球上にある、ここではない他所」ではなく、「未来」や「宇宙」という新たなユートピア世界であった。

また18世紀から続いた資本主義対共産主義の争いが一旦、1917年に設立したロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の誕生により終了したことも、コミュナルリビング設立の沈静化理由として挙げられるだろう。オウエンやフーリエが目指した労働者達の自主経営による平等な社会は、社会主義国家の誕生により一旦実現してしまったと判断することによって、資本主義国家内でその実現を求める必然性は消滅してしまったのである。

その後、再び新しいタイプのコミュナルリビングが生まれてきたのは1960年以降のことでであった。行き過ぎた資本主義社会に対する反動とでもいうべき、アヴァンギャルドなヒッピー・コミュニティや、インド哲学、ヨガなどの精神世界を特徴とするスピリチュアル型コミュナルリビングが生まれた。[1]

また1970年頃、北欧を起点に生活の一部を共有するコ・ハウジング型コミュナルリビングが誕生し、それまでのコミュナルリビングとは異なる新しい共同生活スタイルの様相を見せた。ほぼ同時期に米国で、CCRC(Continuing Care Retirement Community)と呼ばれる高齢者のリタイアメント型コミュナルリビングが誕生した。生まれ育った場所に住み続けることにさほどのこだわりを持たない米国高齢者が、アリゾナやフロリダなどの気候の良好な場所に自立した状態で移住し、高齢期における趣味、介護医療などのサービスを受けるリタイアメント型コミュナルリビングである。中には数千人規模のリタイアメント・コミュニティも存在する。

本章では、こうした実践的コミュナルリビングの歴史をタイプ別に辿ってみることにする。


図2

2コミュナルリビングの歴史推移


[1] Robert S. Fogarty (1980) Dictionary of american communal and utopian history ,Greenwood press

第1章 コミュナルリビング(共同生活)の定義と歴史推移 1-1.コミュナルリビング(共同生活)とは

コミュナルリビング(共同生活)の歴史的系譜を辿る前に、この語句の定義と類型化を試みておきたい。コミュナルリビングとは、「血縁・婚姻などを起因とし、生活を共にする家族(血縁家族/婚姻家族)ではなく、所属や来歴の異なる人々が、特定の家屋内や場所に集まり、日常生活の全部もしくは一部を共同しながら生活するスタイル」のことを指す。

コミュナルリビングは、共同体の一種もしくは一部である。コミュナルリビングと共同体は一見同義にも見えるが、例えば大塚久雄『共同体の基礎理論』[1]1955)では、中世ヨーロッパにおけるゲルマン的共同体の崩壊を「共同体の崩壊」と捉える場合があるように、共同体はより広義の政治経済学的見地から使用される場合もある。ここで語るコミュニティ・リビングは、例えば、1960年代アメリカで新しい価値観や生き方を模索する為に若者たちが集まり自主運営したコミューンのように、より少人数で運営する共同生活体のイメージに近い。

コミュナルリビングは、現在自分が属するコミュニティや家族の生活から物理的にも精神的にも離れ、宗教的理念や政治理念、何らかの生活ポリシーを同じくする人々と共同生活を営むことで、自らが理想とする生活スタイルを築き上げようとする動きでもある。

自らが理想と考える社会という意味において、コミュナルリビングはユートピアにも類似している。ユートピアは、トマス・モアが描いた理想国家の名称であるが、その後、実在、非実在を問わず理想郷を示す一般名詞となった。資本主義の対抗勢力として生まれた社会主義や共産主義社会もユートピア社会として語られる場合もあるが、こうした未実現のユートピア的共同生活のあり方も、コミュナルリビングのひとつとして検討すべき対象範囲のひとつと言えるだろう。

コミュナルリビングは、夢想・構想のレベルに留まった非実在の「ユートピア(空想)型コミュナルリビング」と、実際に共同生活が行われた実在の「実践的コミュナルリビング」に分けることが出来る。本論で取り上げるのは、主に後者の「実践的コミュナルリビング」であるが、「ユートピア型コミュナルリビング」がどのように語られていたかについても多少触れておきたい。



[1] 大塚久雄(1955)共同体の基礎理論 岩波書店

序章 0-5. コミュナルリビング(共同生活)への着目

 いわゆる血縁、婚姻などの繋がりにより親密圏を形成する家族や親族、居住の物理的近隣性による村落、集落ではなく、「特定の理由に基づき集った人々がともに暮らすあり方」をコミュニナル・リビング(共同生活)と捉え、その可能性について考えてみる。

本章の最初に述べたゲマインシャフトの多くは、家族や村落、会社など、「人間の本来備わる本質意志によって結合する有機的な共同社会」と語られるものが中心である。さらにテンニースは、ゲマインシャフトを、血のゲマインシャフト(家族や民族)、場所のゲマインシャフト(村落や共同体)、精神のゲマインシャフト(中世都市や教会)と分類した。

歴史を遡ってみると、テンニースの語ったそれぞれのゲマインシャフトに収まらないさまざまな共同生活のありようが存在した。これらの多くは、共同体に属する人々が自らの意志を持ち、これらゲマインシャフトから離脱し、新たな共同体に移ることを希望し、生活を共にしたものであった。

このようなコミュナル・リビング(共同生活)の視点にもとづき、その歴史的系譜を辿ることで、その存在が、家族・地域=ゲマインシャフト、自治体=ゲゼルシャフトの機能がともに低下した現在、第3の機能として、自助=共助=公助の新しい可能性として考えてみたい。そうする中で、社会的に必要とされ、なおかつ注目されている地域における「ゆるやかなつながり」や「相互扶助」「インクルージョン」の可能性を考えてみたい。

ギャラリー
  • 1-3.実践型コミュナルリビングの歴史的経緯とその概要
  • 1-2.ユートピア(空想)型コミュナルリビング