コミュナル・リビング(Communal Living)を考える

高齢化・人口減少社会における新しい暮らし方、共同体的な暮らし方(コミュナル・リビング)について、さまざまな視点から考察します

社会学

1-3.実践型コミュナルリビングの歴史的経緯とその概要

実践型コミュニナルリビングが最初に登場したのはおおむね17世紀以降のことである。

コミュナルリビング(共同生活)の初期に多数を占めたのは、宗教的自由を求め欧州各地から新天地アメリカに移住した人々による「宗教型コミュナルリビング」であった。次いで、19世紀になると、社会改良主義者のロバート・オウエンやフーリエなどによる「社会改良主義型コミュナルリビング」が生まれた。当初は空想的社会改良主義を唱えるオウエンやフーリエの思想に感化されて設立されたものが中心であったが、その後19世紀後半から20世紀初頭にかけては、無政府主義、共産主義思想などを導入したもの、株式や土地共有システムなど発展しつつある資本主義のシステムを採用した多様な社会改良主義型コミュナルリビングが発生し、これらは最終的に、ソ連のコルホーズ、モシャブ、イスラエルのキブツとして結実していった。その他、フェミニズムや心理学の影響を受けたコミュナルリビングなども登場したが、こうした新たな共同生活体設立の動きは米国では1920年頃を境に一旦静まることになる。

動きが少なくなった理由は、いくつか考えられる。ひとつは世界がほぼ発見され尽くされたことである。マルコポーロの『東方見聞録』やコロンブスによる新大陸発見以来、167世紀の主要西欧各国にとって経済成長のひとつとして大いなる役割を果たしたのが植民地化政策であった。植民地化による領土の拡大は、それに伴い異国の風土や文化が、西洋諸国に舞い込み、エスニック、エキゾシズム文化を産んでいった。また、人々が知り得ぬ世界が辺境の地に存在するという事実が、人々をその地をユートピアとして見立てる衝動に駆り立てた。アメリカに多くの宗教組織が移住したのも、一部には新大陸の発見こそが、実は千年王国の訪れであると信じた人々がいたためであり、オウエンやフーリエのユートピア・コミュニティが本国の英国やフランスではなく、米国で誕生したのもそうした辺境の地=ユートピア願望がその根底にあったからであろう。

しかし20世紀となり、ほぼ世界は発見されつくされた。辺境の地=ユートピアは消滅したのである。そして代わりに新たに生まれたユートピアは、「地球上にある、ここではない他所」ではなく、「未来」や「宇宙」という新たなユートピア世界であった。

また18世紀から続いた資本主義対共産主義の争いが一旦、1917年に設立したロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の誕生により終了したことも、コミュナルリビング設立の沈静化理由として挙げられるだろう。オウエンやフーリエが目指した労働者達の自主経営による平等な社会は、社会主義国家の誕生により一旦実現してしまったと判断することによって、資本主義国家内でその実現を求める必然性は消滅してしまったのである。

その後、再び新しいタイプのコミュナルリビングが生まれてきたのは1960年以降のことでであった。行き過ぎた資本主義社会に対する反動とでもいうべき、アヴァンギャルドなヒッピー・コミュニティや、インド哲学、ヨガなどの精神世界を特徴とするスピリチュアル型コミュナルリビングが生まれた。[1]

また1970年頃、北欧を起点に生活の一部を共有するコ・ハウジング型コミュナルリビングが誕生し、それまでのコミュナルリビングとは異なる新しい共同生活スタイルの様相を見せた。ほぼ同時期に米国で、CCRC(Continuing Care Retirement Community)と呼ばれる高齢者のリタイアメント型コミュナルリビングが誕生した。生まれ育った場所に住み続けることにさほどのこだわりを持たない米国高齢者が、アリゾナやフロリダなどの気候の良好な場所に自立した状態で移住し、高齢期における趣味、介護医療などのサービスを受けるリタイアメント型コミュナルリビングである。中には数千人規模のリタイアメント・コミュニティも存在する。

本章では、こうした実践的コミュナルリビングの歴史をタイプ別に辿ってみることにする。


図2

2コミュナルリビングの歴史推移


[1] Robert S. Fogarty (1980) Dictionary of american communal and utopian history ,Greenwood press

第1章 コミュナルリビング(共同生活)の定義と歴史推移 1-1.コミュナルリビング(共同生活)とは

コミュナルリビング(共同生活)の歴史的系譜を辿る前に、この語句の定義と類型化を試みておきたい。コミュナルリビングとは、「血縁・婚姻などを起因とし、生活を共にする家族(血縁家族/婚姻家族)ではなく、所属や来歴の異なる人々が、特定の家屋内や場所に集まり、日常生活の全部もしくは一部を共同しながら生活するスタイル」のことを指す。

コミュナルリビングは、共同体の一種もしくは一部である。コミュナルリビングと共同体は一見同義にも見えるが、例えば大塚久雄『共同体の基礎理論』[1]1955)では、中世ヨーロッパにおけるゲルマン的共同体の崩壊を「共同体の崩壊」と捉える場合があるように、共同体はより広義の政治経済学的見地から使用される場合もある。ここで語るコミュニティ・リビングは、例えば、1960年代アメリカで新しい価値観や生き方を模索する為に若者たちが集まり自主運営したコミューンのように、より少人数で運営する共同生活体のイメージに近い。

コミュナルリビングは、現在自分が属するコミュニティや家族の生活から物理的にも精神的にも離れ、宗教的理念や政治理念、何らかの生活ポリシーを同じくする人々と共同生活を営むことで、自らが理想とする生活スタイルを築き上げようとする動きでもある。

自らが理想と考える社会という意味において、コミュナルリビングはユートピアにも類似している。ユートピアは、トマス・モアが描いた理想国家の名称であるが、その後、実在、非実在を問わず理想郷を示す一般名詞となった。資本主義の対抗勢力として生まれた社会主義や共産主義社会もユートピア社会として語られる場合もあるが、こうした未実現のユートピア的共同生活のあり方も、コミュナルリビングのひとつとして検討すべき対象範囲のひとつと言えるだろう。

コミュナルリビングは、夢想・構想のレベルに留まった非実在の「ユートピア(空想)型コミュナルリビング」と、実際に共同生活が行われた実在の「実践的コミュナルリビング」に分けることが出来る。本論で取り上げるのは、主に後者の「実践的コミュナルリビング」であるが、「ユートピア型コミュナルリビング」がどのように語られていたかについても多少触れておきたい。



[1] 大塚久雄(1955)共同体の基礎理論 岩波書店

序章 0-5. コミュナルリビング(共同生活)への着目

 いわゆる血縁、婚姻などの繋がりにより親密圏を形成する家族や親族、居住の物理的近隣性による村落、集落ではなく、「特定の理由に基づき集った人々がともに暮らすあり方」をコミュニナル・リビング(共同生活)と捉え、その可能性について考えてみる。

本章の最初に述べたゲマインシャフトの多くは、家族や村落、会社など、「人間の本来備わる本質意志によって結合する有機的な共同社会」と語られるものが中心である。さらにテンニースは、ゲマインシャフトを、血のゲマインシャフト(家族や民族)、場所のゲマインシャフト(村落や共同体)、精神のゲマインシャフト(中世都市や教会)と分類した。

歴史を遡ってみると、テンニースの語ったそれぞれのゲマインシャフトに収まらないさまざまな共同生活のありようが存在した。これらの多くは、共同体に属する人々が自らの意志を持ち、これらゲマインシャフトから離脱し、新たな共同体に移ることを希望し、生活を共にしたものであった。

このようなコミュナル・リビング(共同生活)の視点にもとづき、その歴史的系譜を辿ることで、その存在が、家族・地域=ゲマインシャフト、自治体=ゲゼルシャフトの機能がともに低下した現在、第3の機能として、自助=共助=公助の新しい可能性として考えてみたい。そうする中で、社会的に必要とされ、なおかつ注目されている地域における「ゆるやかなつながり」や「相互扶助」「インクルージョン」の可能性を考えてみたい。

序章 0-4.社会保障制度の機能低下(ゲゼルシャフトの揺らぎ)

こうした動きは、テンニースの語ったゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの動き、共同体社会から市民社会へ移行する動きと重なると言える。産業構造が変化し、高度情報化が進行する中で、我々の周辺社会にあるゲマインシャフト的なものは、徐々にゲゼルシャフト的なものに置き換わって行くのかもしれない。そして、従来、家族や村落(地域)共同体が担っていた役割は、地方自治体や国家が社会制度として代替的役割を果たしていくようになっていったのである。


 しかしその後、公的介護保険法の施行から20年あまりが経過し、高齢化が一層進展する中で、一旦は社会制度化された介護システムの将来像に再び、危険信号が点り始めている。理由のひとつに挙げられるのは、社会保障費の急激な増大である。高齢者人口が増大する一方で、年金財政、保険財政を支える現役世代の人員は減り続けている。医療保険、介護保険のサステナブルな継続に信号が点るのは時間の問題である。実際、すでに地域包括ケアシステムという名の元に、従来、要支援介護者を対象として行われていた日常生活支援事業の一部を、総合事業という名の下に、地域自治内における互助・共助の仕組みに回帰させようという動きも見られている。これは、いわばゲゼルシャフトからゲマインシャフトへの先祖帰りのようにも見える。しかし、社会構造そのものがすでに大きく変節している中で、そうした地域の互助に頼ろうとするシステムの回復、再構築は果たして可能なのだろうか。こうして再び、頼りたいと考えられているゲマインシャフトの回復に光明を見出すことは出来るだろうか?

序章 0-3.共同体(ゲマインシャフト)の揺らぎ

血縁や婚姻を基礎とする家族を共同体として捉えようとすることについての限界は、既に多くの識者の指摘するところであるが、こうした動きは日本が成熟社会を迎えた1980年代からさまざまな形で表出してきた。1990年代における家族社会学の中心主題は、家族の再定義問題が中心であった。[1]


 この時代に家族再定義の必要性に迫られたのは、従来考えられていた「居住および生計を共に営む人たちの相互ケア」という家族概念が、実際の家族のありようと齟齬を来す局面がしばしば見られるようになってきたからである。そのひとつが、家族を構成する個々人の孤立や、共に暮らしつつも相互コミュニケーションが不全となる「個族化」「孤族化」の動きである。こうした動きを上野(2008)は、家族の客観的な定義は、ほぼ崩壊しているとして、むしろ「ひとびとは家族を何と考えるか」というファミリー・アイデンティティ研究の重要性を指摘し、家族の臨界点を明らかにしようとした。[2]


 森田芳光監督による映画『家族ゲーム』(1983)で話題となった、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」さながらに、家族が横一列に並び食事をとるシーンは、まさにこの時代に進んだ家族相互の孤立、コミュニケーションの不全を象徴的に表したものであろう。


 家族共同体のゆらぎのもうひとつの理由は、「3世代」から「核家族」、さらには「単身世帯」という世帯構成の変化にある。その結果、従来「家族共同体」がその多くを担っていた「居住や生計、ケア(養育・病気・介護)という役割の相互代替機能」が低下してしまったのである。


かつて、親の介護の役割を主に担っていたのは、同居する子供夫婦(とりわけ妻)の役割であった。しかし核家族化が進行し、子供たちのみに親の介護を担わせることが事実上困難となった。


こうした動きを受け2000年には公的介護保険法が施行され、介護は共同体内部で解決するべきものではなくなった。公的保険制度の導入により、介護は制度化し、共同体から外部化され、社会化されていった。従来、共同体内(ゲマインシャフト)で処理されていた介護は、社会制度(ゲゼルシャフト)として処理すべき課題として転化されたのである。そして介護は、身内のみならず、介護保険事業者がその役割を担うようになった。またこうした家族介護の問題に留まらず、この時期児童養護や障がい者福祉に関わる各種支援制度なども整えられていったのも、家族というゲマインシャフト機能が低下した結果と捉えることもできるだろう。



[1] 例えば、久保田裕之(2012)「世帯概念の再編非家族世帯と『家計の共同』をめぐって」『年報人間科学』33:27-42.など

[2] 上野千鶴子「家族の臨界 −ケアの分配公正をめぐって−」2008,社会学研究,20(1):28-37

ギャラリー
  • 1-3.実践型コミュナルリビングの歴史的経緯とその概要
  • 1-2.ユートピア(空想)型コミュナルリビング