このように日本でも欧米とはいささか異なる側面を持ちつつ、いくつかのコミュナルリビングが誕生した。1970年前後には米国のヒッピーカルチャー・ムーブメントの影響も受け、日本においてもスピリチュアル型のコミュナルリビングがいくつか誕生した。ウィキペディアによると、滋賀県高島郡朽木村や鹿児島県諏訪之瀬島などにはかつてヒッピーコミューンが存在していたようである。諏訪之瀬島のコミューン住民はその後、東亜燃料工業の石油備蓄計画の反対運動に加わるために鹿児島県大島郡宇検村に移住し、この地でコミューン「無我利道場」(197389)を創設した。また福島県双葉郡川内村には、1973年からこの地で反原発活動を行う住民たちによるエコビレッジ「獏原人村」が現存しているようだ。

 日本でもいくつかのスピリチュアル型のコミュナルリビングの動きがあったようだが、いずれも大きなムーブメントとなることは無く一過性の動きとなった。これらは米国の精神世界コミュナルリビングとは異なり、当時活発であった新左翼的活動と結びついていったのが日本の特徴であり、それが活動を短命にさせたとも言える。

 またこの時期、一時期ではあるが共同体コミュニティに対する学術的関心が高まった。思想の科学研究会メンバーを中心に「ユートピアの会」が組織され、1960年から70年までさまざまな視点から共同体のあり方をテーマに議論がなされた。活動結果は『日本ユートピア学事始』(1973)としてまとめられた。鶴見俊輔や水津彦雄はヤマギシ会を理解するための一週間の特別講義「特講」に参加し、水津はそれ以外の共同体も長年にわたり調査を重ね『日本のユートピア』(1971)を上梓した。北海道学芸大学教授であった草刈善造教授はイスラエル「キブツ」を長く研究し、『キブツの挑戦』(イスラエル・リング著・1974)を翻訳している。日本のコミュナルリビング相互の交流、「キブツ」との接近もこの時期試みられている。1962年に設立された「日本協同体協会」が窓口となり、キブツ研修生200名が70年までに200名余りのキブツ研修生を受け入れている。また1970年には「日本の協同体・話し合ってみる会」が開催され、ヤマギシ会、一燈園、大倭紫陽花邑などが参加した。

 一時期は、日本国内でもこのようにキブツやヤマギシ会を始めとする日本のコミュナルリビングに対する関心が高まった。しかし、その後の経緯を見る限り、それは長続きしなかった。その理由としては、左翼的思想活動に対する国家の強い警戒と活動制限、エコロジー運動の停滞など、いくつか考えられるが、70年代以降の高度経済成長の波の中で、オルタナティブな暮らしのあり方を求めようとする思想は埋没してしまったのではないだろうか。しかし、本論では多くは取り上げないが、近年従来のコミュナルリビングほどの厳しい規律は求めず、よりゆるやかな人間関係のなかでの暮らし方を取り戻したいと考えている人々が増えているように感じられる。次に1970年以降誕生したそうしたコミュナルリビングをいくつか取り上げる。