コミュナル・リビング(Communal Living)を考える

高齢化・人口減少社会における新しい暮らし方、共同体的な暮らし方(コミュナル・リビング)について、さまざまな視点から考察します

2021年07月

2-8.エンゲルスによる批判と評価

ロバート・オウエンは、サン・シモン、フリーエとともにユートピア社会主義者と呼ばれ、彼らの思想はマルクス、エンゲルスから、彼らが主張する共産主義の唯物史観からは大きく外れるもので、幻想(ユートピア)にすぎないとして、厳しく批判に晒された。エンゲルスによる批判の論点は、大きく以下の点であった。

彼らが、3人ともプロレタリアートの真の代弁者でないこと、資本主義発展の未成熟さに対応して彼らの理論も未成熟であり、そのため新しい社会の成立を歴史発展の必然的結果でなしに、頭のなかで作り上げる必要があったこと、それゆえ彼らの未来社会の構想ははじめからユートピアになる運命にあったと指摘している[1]

一方でエンゲルスは、「ユートピア社会主義は、資本主義経済の発達がまだ幼弱な時代において、早くもその諸矛盾を指摘、告発し、資本主義経済の底辺にある勤労階級の視座から、それらの諸矛盾を克服するための諸方策を提出した。」[2]とも語っており、ユートピア社会主義に一定の評価を与えることも忘れてなかったのである。



[1] 五島茂、坂本慶一(1975)「ユートピア社会主義の思想家たち」『世界の名著続8 オウエン サン・シモン フーリエ』中央公論社

[2] pp79

2-7.ルソー『社会契約論』

ニュー・ハーモニーにおいてオウエンが目指した生活のあり方の基調は、平等にあった。この平等という概念をオウエンは、一体何処から得たのであろうか。

この時代において平等というキーワードでまず想起されるのは、ルソーの『社会契約論』である。1762年に出版された『社会契約論』は、国家統治に関し、それまでの王権による専制統治を否定し、その後の人民による直接民主制、共和制成立の理論的支柱となった。ルソー、モンテスキューをはじめとする啓蒙思想の動きは、新たな近代国家体制の成立の契機となった「フランス革命」の勃発にも少なからず影響を及ぼした。

『社会契約論』においてルソーは、市民を主権とする国家統治に関する理論を体系化したが、理論の主骨格には「一般意志」という概念が据えられ、それにより実現されるべき究極目的は、すべての人々の自由と平等であるとした。

専制政治における王権と人民の関係は、暴力としての権力を基礎とする人民への従属の強制による関係に他ならない。しかし、いかなる人間も権力を保持し続けることは出来ない。国家の為政者と人民の関係は、あくまで「約束」に基づくものでなくてはならないとルソーは語る。しかし、その「約束」は、個人の意思としての「特殊意志」ではなく、個人意志の総体としての「一般意志」によるものでなくてはならない。「一般意志」の行使が、王権による国家統治ではなく、市民による国家統治の根幹となる。この思想に基づき、政府、代議制、投票制度などの政府運営の方法論などが述べられる。

この一般意志という概念はかなり特異な概念であるが、言ってみれば、個人の主権の一部もしくはすべてを主権としての国家に贈与する見返りとして、市民は市民としての平等な権利を再配分されるとも読める。

この市民と統治の関係性は、まさにオウエンやフーリエが目指した生活共同体におけるコミュニティ参加と全体組織運営の関係性に相似している。また、ルソーは平等という概念を担保するのが一般意志であり、特殊意志は差別のほうに傾くと語る。

ルソーは、家族の関係性すらも、実はこうした契約・約束(一般意志)に基づくものであると指摘する。家族は、「あらゆる社会の中でもっとも古く、またただ一つ自然なもの」ではあるが、その自然である期間は、「子どもたちが、自分たちを保存するために父を必要とする期間」に限られるものであり、それ以外の期間においても家族が結びついているように見えるのは、両者の意志、約束に基づくものであるというのである。[1]

ルソーによるこのような思想背景を根拠として、共和制という市民による国家統治システムは生まれたわけであるが、これにより彼が理想像として掲げた自由・平等社会が訪れたかというと、それは残念ながら実現しなかった。それを阻んだのは、ブルジョワジーの存在である。  

ブルジョワジーは市民革命において社会変革をもたらすための中核的な役割を果たしたものの、彼らの一部は同時に進行していた産業革命と結びつき、産業資本家として台頭していった。その結果、ブルジョワジーが貴族階級に代わる新たな支配階級となり、第二次産業の担い手であった労働者階級との対立の中から階級社会を生み出していったのである。

こうした貴族=身分という身分階層別社会の連鎖を断ち切ろうとしてまず動きはじめたのが、オウエン、フーリエなどのユートピア社会主義者であったと言えるだろう。



[1] ルソー『社会契約論』岩波書店、桑原武夫、前川貞治郎訳

2-6.平等という思想

オウエンが目指そうとしたユートピア・コミュニティの特徴を再度整理してみる。それらは、①農業、もしくは工業を中心とする自給自足経済への志向、②私有制度の放棄、共有制度への志向、③全員参加型によるコミュニティ運営として集約できる。

 

これらの思想の背景に見えてくるのは、すべからく平等であれという概念である。平等という概念は、歴史的に紐解けば、古代ローマ、ギリシア思想にもその萌芽を見出すことができる。しかし、この時代特に注目されるに至ったのは、フランスの市民革命を経て、封建的階級社会から市民社会へ時代的転換が図られる中で、個人の自由と平等のあり方がほのかながら垣間見えてきたからであろう。

ルソーは、『社会不平等起源論』『社会契約論』において、国家成立の要因として、国家は個々人が自由と平等を最大限に確保するための契約が必要であると語ったが、オウエンは、いわば国家ではなく、コミュニティ=共同体を一つの組織単位として、ルソーの語る平等国家を実現しようとしたと言えるだろう。

2−5.ニュー・ハーモニー後の共同体構想

オウエンのニュー・ハーモニー計画は失敗に帰したものの、オウエンの掲げた平等共同体のビジョンは、当時の多くの人々の心を揺り動かし、その結果、ニュー・ハーモニー以外でも共同生活体設立の動きが各地で起こった。

ニュー・ハーモニーが米国で設立される1825年以前にも、英国では共同体設立に向けた機運が盛り上がった。18226月に結成された「英国内外博愛協会(British and Freign Philanthropic Society)は、オウエンの主張を実践するために結成されたものである。

費用不足により実現はしなかったものの、オウエンを崇拝する共鳴者であったジー・エー・ハミルトン(G.A.Hamilton)は、ニュー・ラナークから数マイル離れたマザーウェルにある彼の土地に共同体を設立しようと熱心に活動した。(しかし、資金が集まらず最終的には挫折)

同じく、英国では1825年、グラスゴーの東方オービストンに共同体が建設された。この村の創設者は、エジンバラ生まれのアブラム・コム、オウエンの熱心な信奉者であった。ニュー・ハーモニーと同様のコンセプトで村の運営が行われたものの、1827年コムの死去に伴いオービストン共同体は財政難に陥り解散した。

オウエン自身も、ニュー・ハーモニーが失敗に帰した後、再びアメリカに赴き、メキシコで新たな共同体設立へチャレンジする。メキシコ大統領に交渉し、国境付近での土地提供協力を取り付けたものの、メキシコ議会による拒絶により、再びオウエンの目論見は潰えてしまう。

2-4.ニュー・ハーモニーの誕生

その後1820年代に、オウエンはアメリカ合衆国で「ニュー・ハーモニー」の創設、建設に奮闘する。この「ニュー・ハーモニー」が建設された地は、もともとドイツ人の宗教家ジョージ・ラップが所有していた場所であった。ドイツにおける教会の形式主義に不満を抱いた彼が、宗教上の自由を求めてアメリカ合衆国に移住、1803年にピッツバークの近くに自給自足の村を形成。その後、1814年にインディアナ州に3万エーカーの土地を買い入れ、「ハーモニー村」を築き上げていた。しかし、その後周辺の開発が進み、人々の信仰が鈍ることを懸念したラップは、この土地の売却を決意。それをオウエンが購入したものだ。

18254月、オウエンは「ハーモニー」の購入契約書に署名、土地および設備一切を3万ポンドで購入した。オウエンがアメリカで共同体を設立したようと考えた理由としては、米国は新開地で自由の空気に満ちていたこと、アメリカ合衆国の南部地方にはいくつかの新しい理想の村がすでに建設されていたことなどが理由として挙げられる。[1]

そして、「ニュー・ハーモニー平等村(New Harmony Community of Equality)」が創設された。買収費は最終的には総額125千ドルにのぼった。この買収費に充てるため、オウエンはニュー・ラナアックの自分の持ち分を売却した。元貿易商人でフィラデルフィア自然科学アカデミーのパトロンで地質学者、ウィリアム・マクルールがオウエンの思想に共鳴し、私財を投じた。

1825年、225日と37日の2回、オウエンはアメリカ議会で大統領、国会議員らを前に「新社会制度」について講演、ニュー・ハーモニーへの来村を勧誘した。同年、世界に生産過剰を原因とする近代恐慌が発生し、翌年にかけて欧州からの移住者が増加、労働者900人をはじめとして移住希望者が集まった。1826124日には、欧米の優秀な自然科学者ら27名の一行が来村した結果、ニューハーモニーはアメリカにおける文化の中心地となった。

182625日には、「ニュー・ハーモニー完全平等共同体憲法」が制定されたものの、実際の共同体運営については、オウエンの当初の目論見は大きく外れ、混乱を極めた。意見の対立から、265月には分村が進行、それにつれてオウエンとマクルールの対立が深刻化していった。共同体の存続は2年あまりで限界に達し、オウエンは巨額損失を覚悟で経営権を放棄する決断を下した。

失敗の原因としては、大きく以下の点が指摘されている。入植を希望する住民選別が不十分:知識人、文化人、労働者に対して、農業の経験者や道具メンテナンスのスキルを持つ職人がおらず、即戦力人材が揃わなかったこと。成員間の宗教的、社会的、人種的偏見が根強く存在し、対立構造が生じたこと、怠慢・勤勉に対する賞罰が欠落しており、労働意欲の低下が深刻化したこと、舞踊や音楽などの文化活動に耽って労働を忌避したこと、平等の実現を掲げたため、委員による意思決定の過程が不明瞭であったこと。

オウエンの高邁な理想とは裏腹に、共有資産の私物化も進行し、最終的にオウエンの夢は潰えてしまう。[2]オウエンは、18286月にニュー・ハーモニーに別れを告げ、英国に帰国するのである。


[1] 前掲書 pp-124

[2] 宮瀬陸夫(1962)『ロバート・オウエン:人と思想』(誠信書房)

ギャラリー
  • 1-3.実践型コミュナルリビングの歴史的経緯とその概要
  • 1-2.ユートピア(空想)型コミュナルリビング