コミュナル・リビング(Communal Living)を考える

高齢化・人口減少社会における新しい暮らし方、共同体的な暮らし方(コミュナル・リビング)について、さまざまな視点から考察します

2021年04月

1-5-1.社会改良主義型コミュナルリビング(オウエン主義、フーリエ主義)

宗教型コミュナルリビングに次いで1820年代から1850年代にかけて相次いで生まれたのが、ユートピア社会主義者として語られるロバート・オウエンとフーリエの思想に感化されて創設された社会改良主義型コミュナルリビングである。ロバート・オウエンの詳細については、次章で詳しく検討することとして、ここではアメリカにおける社会改良主義型コミュナルリビングの概況のみ記しておきたい。

ロバート・オウエンの思想に感化されて設立されたコミュニティは、さほど多くはない。米国ではオウエンの思想に共鳴したオハイオ州出身のスウェーデン牧師ジョン・ローが先行的に始めたコミュニティ、「イエロー・スプリングス・コミュニティ(YELLOW SPRINGS COMMUNITY)」(1825-1827)とオウエン自身が設立した「ニュー・ハーモニー(NEW HARMONY)」(1825-1827)が見られる程度である。しかし、これらは創設から2年ほどでともに運営の混乱により崩壊の憂き目に遭う。ニュー・ハーモニー失敗後も、オウエン自身は自らの教えを広げつつ、アイルランドやクイーンズウッド(ハンプシャー)、ヨークシャーなどにオウエン主義コミュナルリビング創設を支援する。

一方、フーリエ主義に共感し設立されたコミュニティ数はオウエンのそれを大きく凌ぐ。これは、ジャーナリスト、アルバート・ブリズベンがフーリエを広く紹介した影響が大きい。1840年から1846年までの間に25のフーリエ主義共同コミュニティが創設された[1]しかしながらそれらの殆どは創設からさほど時期を経ず、オウエンのコミュニティ同様、解散・終了を迎えている。

「ブルック・ファーム(BROOK FIRM)」(1841-47)は、1841年にジョージ・リプリにより、マサチューセッツ州ウェストロクスベリーに設立されたウィリアム・エリー・チャニング・トランスデンタル・クラブの分派であった。このクラブは1841年に設立された教育的クラブで、作業負荷を平等に分担することで、余暇活動や知的な追求に十分な時間が利用できるようになると考えた。その後、1843年にこの組織はフーリエの社会主義思想に大きく影響され、その後はフーリエ思想の実践および普及の場となった。しかし、持続的に活動を維持する収入を得ることが出来ず、1847年にコミュニティは解散した。

「ノース・アメリカン・フィランクス(NORTH AMERICAN PHALANX)」(1843-56)は、フーリエ主義に熱意を持った人々が、1843年に資金を出し合い、ニュージャージー州のレッドバンクの近くに673エーカーの農場を購入し居を構えたものである。農業が彼らの主業務であったが、実際の農業経験者はわずかだった。1844年からここのコロニー・メンバーはフーリエ主義の実践を試みた。1847年には住宅を建て、1854年に火事が襲うまではフェランクスは経済的にも社会的にも成功を収めたが、その後、コロニーは徐々に弱り、1956年にコミュニティは終了した。

「ラリタン・ベイ・ユニオン(RARITAN BAY UNION)」(1853-56)は、ノース・アメリカン・フィランクスよりもより高度な産業、教育、宗教生活を望む人たちがつくった株式会社方式によるコミュニティである。リーダーはクォーカー教徒であり、商人でもあったマーカス・スプリングス(Marcus Spring)。1852年に268エーカーの土地を買収し、53年夏には統一ビルが建てられた。ビルの片翼は学校が占め、もう片方はプライベート・アパートメントで、ビルの真中には共同食堂が設けられた。コミュニティには数多くの文化人、超名人が集った。コロニーは共同生活を強要することなく、家族生活を守ろうとしたが、1856年にスプリングスが株式を一人で買い戻し、プライベートカンパニーにしたことでその試みは潰え共同生活的要素は失われてしまった。

「リユニオン・コロニー(REUNION COLONY)」(1855-60)は、1855年にアントワープを離れアメリカに移住した150名のフランス人フーリエ主義者によるコミュニティであった。フランスのユートピア社会主義者コンシデラントが組織化したテキサス植民地のためのヨ-ロピアン・ソサイエティの援助によって米国にやってきた。1856年に彼らは2階建ての建物を建て、コミュニティキッチン、ダイニングホール、農業が設けられた。しかし、彼らは核家族スタイルを堅持し、共同生活のスタイルを放棄した。1857年には経済的問題が発生し終焉を迎えた。

「シルクヴィル・コロニー(SILKVVILE COLONY)」(1870-92)は、フランスの貴族階級であったアーネスト・デ・ボワゼリー(Ernest de Boissiere)が、1850年代と60年代に米国を訪問。彼は、アルバート・ブリスベン(Albert Brisbane)、エキジャー・グラント(Ekijah Grant)、チャールズ・シアエス(Charles Seaes)と会い、フーリエ・コロニーについて語った。その年、カンサス教育協会から3500エーカーの土地を購入し、コロニーはフーリエ主義と絹製造のコロニーが設立された。1869年に40名のフランスの植民者が必要な労働者として送られた。1870年には、3階建の住宅が糅てられ、150エーカーの土地が耕され、何千もの桑の木が植えられた。しかし、絹製造が採算に合わず、1892年には売却されてしまった。



[1] Jonathan Beecher (1998) Charles fourier the visionary and his world ジョナサン・ビーチャー 福島知己訳 シャルル・フーリエ伝 幻視者とその世界 作品社 pp13

1-4-3.宗教型コミュナルリビングの特徴

米国における宗教型コミュナルリビングの多くはおおむね18世紀から19世紀初頭に生まれた。多くは欧州各国の母国において信仰上の迫害を受け、米国移住し、共同生活の居を構えたものが中心であるが、中には貧困や就職難を理由としての移住もあった。宗教型コミュナルリビングの寿命は、おおむね数年から数十年が殆どであったが、なかには「シェーカー・コミュニティ(SHAKER COMMUNITIES)」や「フッター派(THE HUTTERITES)」のように現在に至るまで250年近く活動を続けている共同体も存在している。多くの施設が長く続かなかった理由としては、財務上の理由、信仰の分裂、世俗化などにあるが、最も多いのは初期リーダーの死去による組織結束の弱体化である。

 宗教型コミュナルリビングの多くは、特定の宗教的リーダーの元に結集し、結成されたものが多い。多くは原始共産制スタイルが取り入れられ、主に農業や一部軽工業を中心とする生産と質素な消費スタイルが実施され、おおむね自給自足スタイル(サブシステンス経済)が指向された。「オネダ・コミュニティ(ONEDA COMMUNITHY)」では、銀食器の製造が主要産業として育ち、今でもオークション・サイトなどで「オネダ」と検索するとスプーンや皿などの銀食器が販売されているのを発見することができる。しかしながら、多くの場合はサステイナブルな自立継続はままならぬ場合も多く、外部の宗徒に寄付を募るといった方策に頼る共同体もあった。当初採用されていた共有制から私有制に移行するものもあった。

1−4−2.宗教型コミュナルリビングの種類

  欧州からの移住を契機にした米国に於ける宗教型コミュナルリビングは、信仰される宗派によって、もしくは以前居住していた国によって大まかに分類することができる。移住元の国としては、主にイギリス、ドイツが中心であったが、中にはロシア、スウェーデンからの移住も含まれている。

 

<英国系>

イギリスからの移民として最も著名なものは「SHAKER COMMUNITIES(シェーカー・コミュニティ)」である。この共同体は、1774年に英国ボルトン(Bolton)で マザー・アン・リー(Mother Ann Lee)により創設され、その後米国に移り、250年近く経た現在においても続くクォーカー系のキリスト教コミュニティである。シェーカー教徒は、彼らの建造物のシンプルさ、製造物の統一性と美しさ、とりわけ家具において特筆される。

元々、シェーカー・コミュニティは、1705年にフランスから英国にやってきたクォーカー教の伝統を持つカミサード預言者に起源を持つ。

1774年にLeeと他の8名は当初ニューヨークに、続いて近郊のアルバニー(Albany)に移住し、その後マザー・アン・リーはニューイングランド中を旅行して人々を改宗に導いていった。彼女の強いリーダーシップの元で地域のコミュニティが運営され、彼女のビジョンがシェーカー生活を規定した時代であった。

しかし、その後マザー・アン・リーは亡くなり、コミュニティはジョセフ・ミーシェム(Joseph Meacham)とルーシー・ライト(Lucy Wright)指導の下でコミュニティが形成されるようになると、共同社会としても次第に形が伴っていった。

19世紀になると、シェーカーは、その影響を東部に拡げて行った。コロニーは、オハイオ、インディアナ、ケンタッキーにも建設され、1826年には19の永続的コミュニティが設けられた。中西部にも信者は広がり、農業と商業の交易により繁栄していった。

19世紀半ばにはマザー・アン・ワーク(Mother Ann's Work)呼ばれる強い精神的・宗教的リバイバリズムが起こった。このリバイバリゼーションの動きは、メンバーによるインスピレーショナルなドローイング、歌、詩歌などの出現によって特徴付けられる。米国で市民戦争が繰り広げられた時代、シェーカー教徒数はほぼ6千人を維持した。この時代がシェーカーのほぼ全盛期であったと言える。

19世紀後半になると、コミュニティの数が減少し、宗教性やミッション、目的性が薄れていった時期に当たる、1875年には、初期のコミュニティーが閉鎖され、1875年から1947年にかけて、コミュニティは資産を売却するほど窮地に追い詰められた。現在は、シェーカー・コロニーは、サブスデイレイク、メイン州(Sabbath day Lake, Maine)とカンタベリー、ニューハンプシャー州(Cantaerburry,NewHampshire)の2カ所のみとなり、新しい入植者は認められていない。

 シェーカー・コミュニティは、宗教型コミュニナル・リビングの最初期に生まれ、その長い歴史の中において成功を収めたコミュニティのひとつであろう。

 

<ドイツ系>

  18世紀の後半、ドイツには数多くのキリスト教分派が誕生したが、それらのいくつは全身を水に浸して罪を清める浸礼主義や神秘主義を信じる敬虔主義、霊感主義者や再洗礼派であった。コミュニティのいくつかは、教義に基づき独身主義や資産の共有などが求められた。

    最も初期のドイツ系コミュナルリビングとしてあげられるのは「エフラタ(EPHRATA)」(1732-1770)である。ドイツの神秘主義キリスト教徒であったヨハン・コンラッド・ベーゼル(Johann Conrad Beissel)が1720年にアメリカに移住。その後、集団リーダーとなった彼が1732年に設立したのが、エフラタであった。彼らはケダール(Kedar)と呼ばれる共同住宅を建築し、ナイト・ウォッチと呼ばれる沈黙の夜の礼拝を行った。巨大な礼拝所が、共同穀物倉庫、製パン所とともに建てられた。1740年には34名の男性がジオニティック・ブラザーフット(Zionitic Brotherhood)に、35名の女性がスピリチュアル・ヴァージン・クラス(Spiritual Viegins class)で生活を共にした。

「ハーモニー・ソサイエティ(HARMONY SOCIETY)」(18051898)は、預言者であるジョージ・ラップが率いたドイツ人の分離派コミュニティである。1803年にドイツのヴェルテンベルク(Wurttemberg)から移住し、1805年にペンシルバニア州バトラー郡(Butler County)にコミュニティを創設した。メンバーたちは、権威をもつルター派教会に反旗を翻し、聖書の正確な解釈を重視し、ラップの指導に服従した。ハーモニー・ソサイエティは、その後この地を離れ、南西インディアナのワバシュ・リバー(Wabash River)に13000エーカーの土地を購入し、そこをハーモニーと命名した。彼らは、農業、林業、綿製品などを発展させ、メンバーは1千人まで増加したが、1825年にこの地をロバート・オウエンに売却し、再びペンシルバニアに戻り、エコノミーという名のコミュニティを創設した。[1]

「アマナ・ソサエティ(AMANA SOCIETY)」(1843-1932)は、ニューヨーク州エリー郡(Erie County)に建設されたドイツ・ルーテル福音教会のコミュニティであった。エブハード・グルバー(Eberhard Gruber) と ヨハン・ロック(Johann Rock)は、当初ルーテル福音教会の信者であったが、キリスト教の初期教義に関心が高め、次第に霊感主義的傾向を強めた。1826年、リーダーのクリスチャン・メッツ(Christian Metz)は、信者とともにドイツのMarienbornで共同生活を始めたが、その後1842年にニューヨーク州エリー郡(Erie Country)に5000エーカーの土地を購入、800家族が移住した。[2]

 「フッター派(THE HUTTERRITES)」(1847-1877-現存)は、16世紀のドイツ再洗礼派にその原点を持つ。常にドイツ国内で迫害されていた彼らは、1770年、ロシア政府からの受け入れ表明により一旦はウクライナに移住する。しかしその後、受け入れは撤回されたため、彼らは米国への移住を決意する。その数は800名にのぼった。彼らは、当初サウスダコタをはじめ、いくつかの場所に分散して居住し、それらの場所はBruderhof(兄弟の居住場所)と呼ばれた。

「聖ナザレ派コミュニティ(ST.NAZIANZ COMMUNITY)」(1854-1898)は、キリスト教信者ではあるが、いわゆる異端に属する人々ではなく、ローマ・カソリックに属する人々であったが、当時のドイツ・バーデンにおける急激な人口増加に伴う、就職難の結果として移住してきたものである。彼らは、ミルウォーキー(Milwaukee)に土地を購入し、先行部隊が整地し、植物を植え、教会を建てた。植民地生活の当初の20年は、すべての財産は共有であり、食事はコミュニティ・キッチンで提供された。結婚したものにはコテージが提供され、独身者は寄宿舎が提供された。1859年以降コロニーは繁栄し、1864年には農業生産を補強するためのなめし皮工場が設けられた。

 

<スウェーデン系>

「ビショップ・ヒル・コロニー(BISHOP HILL COLONY)」(1846-1862)は、スウェーデンの宣教師エリック・ジャンソンと彼の信者により設立された宗教コミュニティである。旧来のスウェーデン教会への反体制者を引き連れ、彼らは1845年にアメリカに移住、翌年にイリノイ州に居留地を構えた。麻の衣服の製造、養牛、工業品製造などにより住民の生計を維持し、一時期コミュニティは栄えたが、宣教師ジャクソンの死とともにコミュニティ運営は不安定さを増し、1862年に共有制は廃止され、その後2つの信仰意思をもった別集団として分割された。

 



[1] pp.143

[2] pp.128

1-4-1.宗教型コミュナルリビングの始まり

メルティング・ポットという言葉に象徴されるように、米国は海外からの数多くの移民たちにより形成された国家である。建国以来、数多くの欧州からの白人移民やアフリカ大陸からの黒人たちが移住、もしくは強制的に送り込まれた。

移住者たちの一角を占めたのが、母国で宗教的迫害を受け、移住、疎開してきた人々である。彼らの多くは、正統派カソリック教徒やプロテスタントではなく(いわゆるマックス・ウェーバーが語る正統的「教会」に属する人々)ではなく、周辺もしくは異端として認識されていた「宗派(セクト)」に属する人々が多い。米国における共同生活コミュニティの歴史は、そうした自らの信仰心を守ろうとする人々たちによってまずは形成されていった。彼らにとっては新大陸の存在そのものが、来るべき千年王国の到来に他ならなかった。

新世界アメリカのはじまりは、1620年メイフラワー号に乗り込みこの地にやってきたピルグリム・ファーザースと言われている。彼らは母国イギリスにおいて宗教的迫害を逃れた清教徒(ピューリタン)たちであった。

ピルグリム・ファーザーズに限らず、欧州から米国に移民してきた人々の中には宗教的理由を背景にこの地に自由を求め移住してきた人々も数多くいた。[1]

16世紀から17世紀にかけて欧州各国において、それまでの正統信仰であるカソリックに加え、新たにプロテスタント(ルター主義・カルヴァン主義)という大きな宗派が生まれ、国により概ねカソリック、プロテスタントの色分けがなされた。イタリア、スペイン、フランス、ドイツ南部、ネーデルランド南部はカソリックとなり、ドイツ北部、スカンディナヴィア、イギリス諸島、ネーデルランド北部はプロテスタントが主流を占めた。[2]しかしそうした中でも、それぞれの地域において、新たな宗派や分派が生まれていった。例えばそれらは、ユニテリアン(神の単一性を主張する)、三位一体論、ペンテコステ派(預言の賜物の復活を信じるもの)、千年王国説を信じるもの(地上の玉座からキリストが支配し、聖人(かれら自身)が統治する世界を待望するもの)、クェーカー派、シェーカー派、独立派、分離派(原始キリスト教への回帰を示すもの)、バプテスト派、セブンステー・アドヴェンティスト、プリマス・ブレズレンといった宗派で、これらの多くもしくは一部が迫害を受け祖国から新大陸をめざしたのである。


[1] Nancy Green (1994)  L’odyssee emigrants et ils peupleerent l’Amerique  (ナンシー・グリーン 明石紀雄監修 村上伸子訳 多民族の国アメリカ ー移民たちの歴史 創元社 pp20)

[2] David ChristieMurray (1976) A history of  heresyD.クリスティ=マレイ 野村美紀子訳 異端の歴史 教文館)

1-3.実践型コミュナルリビングの歴史的経緯とその概要

実践型コミュニナルリビングが最初に登場したのはおおむね17世紀以降のことである。

コミュナルリビング(共同生活)の初期に多数を占めたのは、宗教的自由を求め欧州各地から新天地アメリカに移住した人々による「宗教型コミュナルリビング」であった。次いで、19世紀になると、社会改良主義者のロバート・オウエンやフーリエなどによる「社会改良主義型コミュナルリビング」が生まれた。当初は空想的社会改良主義を唱えるオウエンやフーリエの思想に感化されて設立されたものが中心であったが、その後19世紀後半から20世紀初頭にかけては、無政府主義、共産主義思想などを導入したもの、株式や土地共有システムなど発展しつつある資本主義のシステムを採用した多様な社会改良主義型コミュナルリビングが発生し、これらは最終的に、ソ連のコルホーズ、モシャブ、イスラエルのキブツとして結実していった。その他、フェミニズムや心理学の影響を受けたコミュナルリビングなども登場したが、こうした新たな共同生活体設立の動きは米国では1920年頃を境に一旦静まることになる。

動きが少なくなった理由は、いくつか考えられる。ひとつは世界がほぼ発見され尽くされたことである。マルコポーロの『東方見聞録』やコロンブスによる新大陸発見以来、167世紀の主要西欧各国にとって経済成長のひとつとして大いなる役割を果たしたのが植民地化政策であった。植民地化による領土の拡大は、それに伴い異国の風土や文化が、西洋諸国に舞い込み、エスニック、エキゾシズム文化を産んでいった。また、人々が知り得ぬ世界が辺境の地に存在するという事実が、人々をその地をユートピアとして見立てる衝動に駆り立てた。アメリカに多くの宗教組織が移住したのも、一部には新大陸の発見こそが、実は千年王国の訪れであると信じた人々がいたためであり、オウエンやフーリエのユートピア・コミュニティが本国の英国やフランスではなく、米国で誕生したのもそうした辺境の地=ユートピア願望がその根底にあったからであろう。

しかし20世紀となり、ほぼ世界は発見されつくされた。辺境の地=ユートピアは消滅したのである。そして代わりに新たに生まれたユートピアは、「地球上にある、ここではない他所」ではなく、「未来」や「宇宙」という新たなユートピア世界であった。

また18世紀から続いた資本主義対共産主義の争いが一旦、1917年に設立したロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の誕生により終了したことも、コミュナルリビング設立の沈静化理由として挙げられるだろう。オウエンやフーリエが目指した労働者達の自主経営による平等な社会は、社会主義国家の誕生により一旦実現してしまったと判断することによって、資本主義国家内でその実現を求める必然性は消滅してしまったのである。

その後、再び新しいタイプのコミュナルリビングが生まれてきたのは1960年以降のことでであった。行き過ぎた資本主義社会に対する反動とでもいうべき、アヴァンギャルドなヒッピー・コミュニティや、インド哲学、ヨガなどの精神世界を特徴とするスピリチュアル型コミュナルリビングが生まれた。[1]

また1970年頃、北欧を起点に生活の一部を共有するコ・ハウジング型コミュナルリビングが誕生し、それまでのコミュナルリビングとは異なる新しい共同生活スタイルの様相を見せた。ほぼ同時期に米国で、CCRC(Continuing Care Retirement Community)と呼ばれる高齢者のリタイアメント型コミュナルリビングが誕生した。生まれ育った場所に住み続けることにさほどのこだわりを持たない米国高齢者が、アリゾナやフロリダなどの気候の良好な場所に自立した状態で移住し、高齢期における趣味、介護医療などのサービスを受けるリタイアメント型コミュナルリビングである。中には数千人規模のリタイアメント・コミュニティも存在する。

本章では、こうした実践的コミュナルリビングの歴史をタイプ別に辿ってみることにする。


図2

2コミュナルリビングの歴史推移


[1] Robert S. Fogarty (1980) Dictionary of american communal and utopian history ,Greenwood press

ギャラリー
  • 1-3.実践型コミュナルリビングの歴史的経緯とその概要
  • 1-2.ユートピア(空想)型コミュナルリビング