コミュナル・リビング(Communal Living)を考える

高齢化・人口減少社会における新しい暮らし方、共同体的な暮らし方(コミュナル・リビング)について、さまざまな視点から考察します

2021年04月

1-6-3.現在のキブツ

1990年に冷戦構造は終結を向かえたが、キブツは思想背景から離れたかたちで現在も機能している。当初は、農業を中心とする共同体であったが、その後、工業へのシフトが進められた。また、子供は親元から離し、集団で育てる家や財産も含めた完全な共有制といった厳格なスタイルから、私有化もゆるやかに導入し、私有化された家で親子同居スタイルが現在の主流になりつつあるという。

現在、キブツの数は282を数え、人口は近年増加傾向で17万人を越えるという。(全国団体「キブツ運動」などによる)近年のイスラエルは、サイバーセキュリティ技術、軍事技術を中心に世界の最先端技術保有国として知られているが、キブツの中にも、そのような先端中核技術を保有している組織があるという。

少量の水で植物を栽培する「点滴灌漑」技術を保有するネタファム社は、キブツ・ハツェリム発祥。世界180の企業や政府機関のシステム防衛を請け負うササ・ソフトウェア社はキブツ・ササから生まれた。

このような先端技術が生まれる土壌がキブツ由来なのかどうかは不明であるが、共同生活を送る上で生まれる「暮らしやすさ」が、現在でもキブツに入りたいと考える人々を生んでいるようであり、その結果として高い技術を保有する人々をキブツで仲間化できているのかもしれない。オウエン、フーリエを起点として指向された万人が平等に暮らすことの出来る共同生活体は、共産主義が崩壊した今、実質的にキブツとしてのみ生き残っているのだと言えよう。

1-6-2.キブツの運営原則

キブツの運営原則としては、以下の点が挙げられている。集団による所有:土地、生産手段、建物などの基本財産は、すべて集団による共有。メンバーの私有は限定されているが、近年は徐々に一部の私有制が認められるように修正される傾向にある。集団による生産と労働:生産計画は専門の委員会によって立案され、総会の承認で実行に移される。必要な労働力の配分は、労働委員会や労働調整係によって配分、決定される。集団によるサーヴィスと消費:個人家庭においては普通の主婦の仕事とされる炊事や洗濯などの家事も、すべて集団によってなされる。共同教育:子供の養育と教育も共同体全体の責任になっている。直接民主主義:キブツの最高意思決定機関は、メンバー全員の参加による総会で、重要な議案、個人の進路選択もこの場の総意に基づいて決定される。

キブツの評価として、以下の点が挙げられている。

貧富の差のない社会:労働、住宅、医療(社会保障)、教育などは平等に保障されており、貧富の差はない。個人的な買い物、旅行などのために一定の金額が個人に割り当てて支給される。労働価値の平等:頭脳労働と肉体労働の間に地位や対価の差別は無く、すべての労働は等しく評価される。男女の平等:女性も男性と同じく一日八時間の労働を義務づけられる。女性はキブツのほとんどの職場に進出して責任ある地位に就いているケースも多い。終身社会保障:メンバーの一生と各メンバーの両親の老後はキブツが保障している。病気や事故により働くことが出来ない身体になったとしても生活と看護はキブツによって保障される。老人の社会参加も保障される。共同教育の成果:教育の平等が実現され、18歳になるまでは全く平等な保育、教育の場が与えられている。高い生産性と経済効率:消費・サービス部門の協同化によって経済面の合理化も達成している。例えば家電製品も各住戸に導入する代わりに、全体で大型な設備を備えればいい。食料や日用品の購入も無駄がない。一般家庭では生み出すことの難しい女性の労働力を、保育施設、調理場、洗濯場などによる家事の解放をして、合理的に活用している。自然と人に恵まれた環境:自然環境に恵まれ、騒音や排気ガスや車の危険に悩まされることのない静かな生活に包まれ、果樹園や野原への散策は人々の日常の中に根付いている。

1-6-1.キブツ型コミュナルリビング

 社会改良主義型コミュナルリビングの別タイプツとして、米国ではなく、イスラエルで独自に発達したコミュナルリビングがキブツである。キブツは、ヘブライ語で「集団」を意味する。

イスラエルでキブツが誕生したのは20世紀初頭のことである。キブツが生まれた理由については、アミア・リブリッヒ(1993)『キブツ その素顔』[1]によると、①19世紀後半のロシア、東欧におけるユダヤ人迫害の動き、シオニズムと当時のヨーロッパに台頭したマルクス主義、ナロードニキ(ロシアに生まれた農本主義的な急進思想)、トルストイの描いた理想農村主義の影響、当時のパレスチナにおけるユダヤ人のおかれていた困難な状況を背景として、シオニズム(国家再建)を進める政治運動の中心組織として、1897年にシオニスト機構が発足。開拓のためにパレスチナ事務局が設置され、1909年、シオニスト機構の下部組織ユダヤ民族基金が購入した土地で、優秀な青年労働者7人を1年契約で自主的に開拓させるという実験が試みられたという。

この成功を機に、新たな労働者を募集し、入植した後の農業管理を彼らに委譲し、定住の権利を与えるという大胆な条件も加えられるようになった。これが最初のキブツの原型となった。

どのキブツも果樹園、小麦畑、綿畑などの広大な農場に囲まれており、その中に生活区域が一カ所にまとまった形になっている。生活区域の中心には大きな食堂があり、その近くに事務所、診療所、郵便局、売店、図書館、娯楽談話室、洗濯場、衣料庫などの共同施設、さらにメンバーの個人住宅、子供達の家、学校などが散らばっている。また、立派な劇場、美術館、体育館をもったキブツもある。

現在、約300弱のキブツがイスラエル国内に散在しており、ひとつのキブツの大きさは人口50人から2千人近い規模までさまざまで平均500700人である。キブツ総人口は約13万人(1990年現在)であり、イスラエル人口の約3%にあたる。



[1] Amia Leiblich( 1981) Kibbutz makom Pantheon Books (アミア・リブリッヒ キブツ その素顔 ミルトス)

1-5-3.多様化する社会改良主義型コミュナルリビング

19世紀後半から20世紀初頭にかけては、市民革命を契機として、基本的人権をはじめとして政治的自由と平等を獲得した市民たちが、より豊かな権利の獲得を求め各種の活動が行われた時代でもあった。

資本主義の進展とともに少数資本家と大多数の労働者の格差の拡大を是正しようとしたものが、前節に見たロバート・オウエンやフーリエの社会改良主義であった。オウエン、フーリエが目指したこれらの動きに続き、19世紀後半には、後のマルクス、エンゲルスによる共産主義活動にも繋がる無政府主義運動なども活発となり、これら思想を反映したコミュナルリビング(共同生活)が継続的に生まれていった。共産主義は、1917年のロシア革命を経て、1922年ロシア連邦の成立により共産主義体制が正式に確立されたが、それ以前の時期において、未成熟と言われたユートピア社会主義同様、いくつかのユートピア共産主義思想に基づいたコミュナルリビングが米国内においても誕生した。

また、一方で資本主義も精緻化が進む中で、株式会社方式や土地資産の共有などのシステムを活用してコミュナルリビングを設立・運営しようとする試みがこの時期、積極的に行われた。

例えば、社会主義思想を反映したコミュナルリビングとしては、社会主義思想に感化され、カリフォルニア州セコイアに集まった「カウェイ・コ・オペラティブ・コモンウェルス(KAWEAH CO=OPERATIVE COMMONWEALTH)」(1885-1892)や、マルクス派社会主義者ジュリアス・ウェイランドの発行する雑誌『The Comming Nation』に共感を示した人々が集った「ラスキン・コーペラティブ・アソシエイション( RUSKIN COOPERATIVE ASSOCIATION)」などがある。また、無政府主義者が教育を目的として立ち上げた「フェリー・コロニー(FERRER COLONY)」(1914-1946)、「ホーム・コロニー(HOME COLONY)」(1898-1909)などのコミュニティもあった。

「コロラド・コ-ポラティヴ・カンパニー(COLORADO COOPWEATIVE COMPANY)」(1894-1910)の本来の設立目的は、灌漑水路の建設にあった。また「コーペラティブ・ブラザーフッド(COOPERATIVE BROTHERHOOD)」(1898-1913)は、株式会社方式で、シアトルの北、キサップ郡で製材事業の運営を担うコミュナルリビングであり、このように見ていくと、社会改良主義型のタイプも19世紀末から20世紀になると相当多様性を帯びていることが理解できるだろう。

またこれは社会改良型の派生として誕生したユニークなタイプのコミュナルリビングが、フェミニスト・コミュニティである「ウーマンズ・コモンウェルス(WOMEN’S COMMONWEALTH)」(1860-1930)である。このコミュニティは、マーサ・マックワイター(Matha McWhiter)のリーダーシップの下、夫より独立した女性たちによる宗教コミュニティで、約50名の女性たちが卵販売や農業経営、ホテル経営などで生計を維持しようとしたコミュナルリビングであった。これはその後のフェミニズム活動の萌芽とも呼べるものであり、現在のコ・ハウジング型コミュナルリビングにも繋がる動きであるといえよう。

1-5-2.社会改良主義型コミュナルリビングの特徴

「社会改良主義型コミュナルリビング」は、ロバート・オウエンとフーリエの思想を原点とするコミュナルリビングであり、時期としてはすべて19世紀内に生まれ、同世紀内にほぼその活動を終了させている。その意味では極めて短期間のブームであったとも言える。

社会改良主義型コミュナルリビングは、宗教的信念に基づいた共同生活体ではなくイデオロギーに基づいた共同生活体であったと言える。資本主義の発達にともなう貧富の差の解消を主目的とし、共同生活を通じ、皆が平等に自立生活できることが目標とされた。共同生産、共同消費といった生活スタイル、節度のある質素な生活スタイルなどの指向については宗教型コミュナルリビングと同一であり、近代化が進みつつある中でも質素は一種の美徳として保持された。全員を集団としてまとめる精神的な軸は、教育を通じて養うことが可能と考えられ、コミュニティー内の能力格差は、利他心に基づき平等化の修正によって図ろうとした。

宗教型コミュニナル・リビングが現在もなおいくつか存続しているものがあるのに対し、社会改良主義型は長くても20年程度で、殆どわずか数年で活動寿命を終えた。短命であった最も大きな理由は経済問題であった。収入の糧は自足自給農業が目指されたが、知識があり思想的共感を覚え集まった人々ではあったが、農業経験はほぼ素人の人たちも多く、理想に対して内実は空回りであり、実利のある農業生産は適わなかった。また農業に加えて、織物業、印刷業などの軽工業での収入向上も目指されたが、自立採算を維持する程度には至らなかった。

エンゲルスからは、オウエン、フーリエが目指したコミュナルリビングは「ユートピア型社会主義」であると揶揄された。すなわち、資本主義発展の未成熟さに対応し、彼らの理論も未成熟である。そのため新しい社会の成立を歴史発展の必然的結果でなしに、頭のなかで作り上げる必要があったゆえに、彼らの未来社会の構想ははじめから幻想(ユートピア)になる運命にあったと指摘されたのである。[1]しかし、オウエンが理想とした共同生活の理念はその後、コミュナルリビングとは別に、19世紀半ばのロッチデールを起源とした生産協同組合や生協運動として現在まで引き継がれていった。



[1] Friedrich Engels (1883) Die entwicklung des sozialismus von der utopia zur wissenschaft(エンゲルス 大内兵衛訳 空想より科学へ 岩波書店)

ギャラリー
  • 1-3.実践型コミュナルリビングの歴史的経緯とその概要
  • 1-2.ユートピア(空想)型コミュナルリビング