日本における最初のコミュナルリビングは、武者小路実篤が、「人間らしく生きる」「自己をいかす」ことができる社会を求め、大正7(1918)年に宮崎県児湯郡木城町石河内(現在)に創設した「新しき村」である。
武者小路が「新しき村」の創設に思い至った理由については下記のように説明されている。彼自身が、出自である華族の食客的生活に大きな疑問を抱いていたこと、トルストイ作品から影響を受け、作中の簡素な生活に大きく心を動かされていたこと、華族でありながら農耕生活を経験した叔父からの影響、前年に起きたロシア革命などである。
武者小路がどの程度トルストイから直接的影響を受けたのか、詳細は不明であるが、たしかに同時期の19世紀末から20世紀初頭にかけて、トルストイ運動と呼ばれるキリスト教平和主義に繋がる禁欲的でシンプルな生活を志向する集団がロシア、欧州、アメリカの各地において生まれている。ウィキペディアによると、ロシア国内でもウラジミール・チャートコフにより農業コロニー運動が主導され、その後、スモンレク、トヴェリ、サマラ、ペルミ、キエフの各州に農業コミュニティが1917年のロシア革命直後に設立された。この動きは、ロシア国内に留まらず、欧米やアメリカにまで広がっていった[1]。おそらく武者小路はこのような活動を伝聞し、自らもそうしたコロニー設立に動いたのであろう。
社会階級による格差に対する反対意思表明という視点では、オウエンやフーリエなどの社会改良主義思想と共通する部分がある。共同体設立の進め方についても雑誌連載を通じて賛同者を集めるなどの方法論は同じく社会改良主義コミュナル・リビングで、「イカリア(ICARIA)」や「KAWAH CO-OPERATIVE COMMONWEALTH」「RUSKIN COOPERATIVE ASSOCIATION」「ホーム・コロニー(HOME COLONY)」などが冊子や新聞、雑誌を通じて参加者を募ったのと同様の手法である。新聞や雑誌という大衆メディアの勃興が、こうした動きを後押ししたのであろう。
大正7(1918)年、「大阪毎日新聞」夕刊の連載小説欄に執筆した『新しき村の生活』(全7回)、同年雑誌『白樺』5~6号の「新しい生活に入る道」「同 二」が、武者小路による「新しき村」のマニフェストとなった。この記事はともに大きな反響を呼び、賛否入り乱れる激しい論評を巻き起こした。その中で、実篤は「新しき村」の実現に向け、各地で演説会を開催、運動に対する賛同者を得ると同時に候補地の選定を行った。
最終的な候補地となったのは、宮崎県の山間部にある中世の山城跡であった。宮崎県中部を流れ、最終的には日向灘に河口を持つ小丸川が大きく蛇行する土地である。川向こうからその瘤のような形状のような地を眺めると、世間から隔絶された理想郷(ユートピア)としては最適な地のようにも見えてくる[2]。実際、東京から遠く離れたこの地を選定するに当たって、実篤は「第一に日向という国が気に入り、高千穂という日本創生の地というイメージが魅力的だった。」と機関誌に書いている。[3]日本書紀に描かれた場所を選んだという点では、「新しき村」は、ユートピア型コミュナル・リビング的性格も帯びていたと言えるだろう。
地元の篤農家・津江市作氏の協力を得て6.5ヘクタールの土地購入、農業を中心とする共同生活を大人20人、子供2人の合計20人でスタートさせたのが1919年のことであった。
「新しき村」は、その後評判を呼び、最大では約60名の人々が共同生活を営んだ。しかし、当初目指した農業経営による自立を達成することは適わず、常に実篤の原稿料収入による資金的援助が求められた。そのため、設立当初は「新しい村」で同居生活を営んでいた実篤だが、自らは東京に戻り、資金的バックアップに専念することになる。
「新しき村」は、その後「東の村」(埼玉県)への移転を経ながらも、宮崎の「新しき村」も1世紀の長きにわたりその活動を続けて現在に至っている。
また、1939(昭和14)年から開墾が始まった「東の村」(埼玉県入間郡茂呂山町・昭和29年には名称を「新しき村」に改名)は、戦時期を経て、入居者が次第に増加し、稲作、畑、養鶏、乳牛の飼育、果樹と次第に栽培品目を拡大しつつ、経済基盤の確立を目指した。1958(昭和33)年には、ようやく当初からの悲願であった「村の自活」を達成することが出来た。まさに宮崎でのスタートから40年がかかったことになる。その間の赤字負担は実篤による執筆活動や村外会員の支援に支えら続けられたのである。
1976年には実篤は90歳で死去するが、その後も活動は現在まで続いている。1980年には60名を超えた村内生活者も、その後は減少を続け、2020年時点での村内生活者は13名。一時は達成できた自給生活も、主力事業の養鶏事業の困難に加え高齢化が追い打ちをかけ厳しい状況が続いている。近年では村内敷地に太陽光パネルを設置し発電事業にチャレンジするなど自立経済へ向けた努力が続けられている。