コミュナル・リビング(Communal Living)を考える

高齢化・人口減少社会における新しい暮らし方、共同体的な暮らし方(コミュナル・リビング)について、さまざまな視点から考察します

3-1-1.武者小路実篤「新しき村」

日本における最初のコミュナルリビングは、武者小路実篤が、「人間らしく生きる」「自己をいかす」ことができる社会を求め、大正71918)年に宮崎県児湯郡木城町石河内(現在)に創設した「新しき村」である。

武者小路が「新しき村」の創設に思い至った理由については下記のように説明されている。彼自身が、出自である華族の食客的生活に大きな疑問を抱いていたこと、トルストイ作品から影響を受け、作中の簡素な生活に大きく心を動かされていたこと、華族でありながら農耕生活を経験した叔父からの影響、前年に起きたロシア革命などである。

武者小路がどの程度トルストイから直接的影響を受けたのか、詳細は不明であるが、たしかに同時期の19世紀末から20世紀初頭にかけて、トルストイ運動と呼ばれるキリスト教平和主義に繋がる禁欲的でシンプルな生活を志向する集団がロシア、欧州、アメリカの各地において生まれている。ウィキペディアによると、ロシア国内でもウラジミール・チャートコフにより農業コロニー運動が主導され、その後、スモンレク、トヴェリ、サマラ、ペルミ、キエフの各州に農業コミュニティが1917年のロシア革命直後に設立された。この動きは、ロシア国内に留まらず、欧米やアメリカにまで広がっていった[1]。おそらく武者小路はこのような活動を伝聞し、自らもそうしたコロニー設立に動いたのであろう。

社会階級による格差に対する反対意思表明という視点では、オウエンやフーリエなどの社会改良主義思想と共通する部分がある。共同体設立の進め方についても雑誌連載を通じて賛同者を集めるなどの方法論は同じく社会改良主義コミュナル・リビングで、「イカリア(ICARIA)」や「KAWAH CO-OPERATIVE COMMONWEALTH」「RUSKIN COOPERATIVE ASSOCIATION」「ホーム・コロニー(HOME COLONY)」などが冊子や新聞、雑誌を通じて参加者を募ったのと同様の手法である。新聞や雑誌という大衆メディアの勃興が、こうした動きを後押ししたのであろう。

大正71918)年、「大阪毎日新聞」夕刊の連載小説欄に執筆した『新しき村の生活』(全7回)、同年雑誌『白樺』56号の「新しい生活に入る道」「同 二」が、武者小路による「新しき村」のマニフェストとなった。この記事はともに大きな反響を呼び、賛否入り乱れる激しい論評を巻き起こした。その中で、実篤は「新しき村」の実現に向け、各地で演説会を開催、運動に対する賛同者を得ると同時に候補地の選定を行った。

最終的な候補地となったのは、宮崎県の山間部にある中世の山城跡であった。宮崎県中部を流れ、最終的には日向灘に河口を持つ小丸川が大きく蛇行する土地である。川向こうからその瘤のような形状のような地を眺めると、世間から隔絶された理想郷(ユートピア)としては最適な地のようにも見えてくる[2]。実際、東京から遠く離れたこの地を選定するに当たって、実篤は「第一に日向という国が気に入り、高千穂という日本創生の地というイメージが魅力的だった。」と機関誌に書いている。[3]日本書紀に描かれた場所を選んだという点では、「新しき村」は、ユートピア型コミュナル・リビング的性格も帯びていたと言えるだろう。

地元の篤農家・津江市作氏の協力を得て6.5ヘクタールの土地購入、農業を中心とする共同生活を大人20人、子供2人の合計20人でスタートさせたのが1919年のことであった。

「新しき村」は、その後評判を呼び、最大では約60名の人々が共同生活を営んだ。しかし、当初目指した農業経営による自立を達成することは適わず、常に実篤の原稿料収入による資金的援助が求められた。そのため、設立当初は「新しい村」で同居生活を営んでいた実篤だが、自らは東京に戻り、資金的バックアップに専念することになる。

「新しき村」は、その後「東の村」(埼玉県)への移転を経ながらも、宮崎の「新しき村」も1世紀の長きにわたりその活動を続けて現在に至っている。

 

また、1939(昭和14)年から開墾が始まった「東の村」(埼玉県入間郡茂呂山町・昭和29年には名称を「新しき村」に改名)は、戦時期を経て、入居者が次第に増加し、稲作、畑、養鶏、乳牛の飼育、果樹と次第に栽培品目を拡大しつつ、経済基盤の確立を目指した。1958(昭和33)年には、ようやく当初からの悲願であった「村の自活」を達成することが出来た。まさに宮崎でのスタートから40年がかかったことになる。その間の赤字負担は実篤による執筆活動や村外会員の支援に支えら続けられたのである。

1976年には実篤は90歳で死去するが、その後も活動は現在まで続いている。1980年には60名を超えた村内生活者も、その後は減少を続け、2020年時点での村内生活者は13名。一時は達成できた自給生活も、主力事業の養鶏事業の困難に加え高齢化が追い打ちをかけ厳しい状況が続いている。近年では村内敷地に太陽光パネルを設置し発電事業にチャレンジするなど自立経済へ向けた努力が続けられている。



[1] ウィキペディア Tolstoyan movement(トルストイ運動)の項参照https://en.wikipedia.org/wiki/Tolstoyan_movement

[2] 2019530日、筆者による現地視察にもとづく。

[3] 森谷とみ(1980)回想・新しき村 大きなタネの会

3-1.日本におけるコミュナルリビングの歴史

 コミュナルリビングの系譜を整理するに当たり、第2章でコミュナルリビングのタイプをユートピア型コミュナルリビング、実践型コミュナルリビングに分類し、さらに実践型を宗教型、社会改良主義型、キブツ型、スピリチュアル型、コハウジング型、リタイアメント型タイプに類型化した。

 日本にも古事記に象徴されるように固有の神話やさまざまな宗教が存在している。日本におけるユートピア型コミュナルリビングも最初は、こうしたところから生まれた。安永壽述は、『日本のユートピア思想』(1971)で日本的ユートピア思想の源泉として、出雲系神話に現れる常世や、日本書紀と続日本書紀所収の浦島伝説、仏教に見られる弥勒信仰などと指摘するが、これはユートピア型コミュナルリビングの範疇に属するものと言える[1]

 実践型コミュナルの源泉としては、安藤昌益、権堂成卿、谷川雁などに代表される江戸時代から戦前に至る農本民主主義思想の流れに見出すことができる[2]。安藤昌益(1703-1762)は、江戸時代中期の医師、思想家・哲学家である。著書『自然真営道』において、身分・差別階級を日否定して、全ての者が労働(直耕=農業)に携わるべきという徹底とした平等思想を唱えた。また権堂成卿(1968-1937)は資本主義を批判し、農村を基盤とした共済共存共同体としての「社稷国家」の実現を唱えた。

 欧米で宗教型コミュナルリビングが誕生した契機となったのは、宗教間のセクト対立と同時期に新大陸の発見にあった。社会改良主義型コミュナルリビングは、市民革命と第一次産業革命を契機とする資本者階級と労働者階級の対立解消を主目的に生まれた。

 同時期の日本は鎖国状態にあり、こうした欧米の状況とはほぼ無関係であった。日本において封建社会が解かれ、諸外国のさまざまな情報が流入し、産業資本による発達が始まったのは明治維新以降のことである。国家主導による産業振興から民間資本の蓄積が次第に進み、士農工商という固定化された階層社会ではなく、市民社会内で貧富による階層格差が形成されていたのは明治末期から大正にかけてのことであり、この頃には、次第に日本においても社会主義思想、共産主義思想が次第に広がってきた。こうした時代環境を背景に、日本国内においても徐々にコミュナルリビングが生まれる機運が整ってきた。

明治後期から昭和初期にかけて、日本各地でもいくつかのコミュナルリビングが生まれた。これらのいくつかは(「新しき村」など)、欧米の社会改良主義思想の流れに一定の影響を受けたものであったが、それ以外にも、一燈園や紫陽花邑など、独自の信仰を元にしたコミュナルリビングも誕生した。その意味で、日本におけるこの時期は、宗教型コミュナルリビングと社会改良型コミュナルリビングが同時発生した時期であったとも言えるだろう。



[1] 安永壽延(1971)日本のユートピア思想 コミューンへの志向 法政大学出版局

[2] 奥井智之(199060冊の書物による現代社会論 五つの思想の系譜 中公新書 159

2-8.エンゲルスによる批判と評価

ロバート・オウエンは、サン・シモン、フリーエとともにユートピア社会主義者と呼ばれ、彼らの思想はマルクス、エンゲルスから、彼らが主張する共産主義の唯物史観からは大きく外れるもので、幻想(ユートピア)にすぎないとして、厳しく批判に晒された。エンゲルスによる批判の論点は、大きく以下の点であった。

彼らが、3人ともプロレタリアートの真の代弁者でないこと、資本主義発展の未成熟さに対応して彼らの理論も未成熟であり、そのため新しい社会の成立を歴史発展の必然的結果でなしに、頭のなかで作り上げる必要があったこと、それゆえ彼らの未来社会の構想ははじめからユートピアになる運命にあったと指摘している[1]

一方でエンゲルスは、「ユートピア社会主義は、資本主義経済の発達がまだ幼弱な時代において、早くもその諸矛盾を指摘、告発し、資本主義経済の底辺にある勤労階級の視座から、それらの諸矛盾を克服するための諸方策を提出した。」[2]とも語っており、ユートピア社会主義に一定の評価を与えることも忘れてなかったのである。



[1] 五島茂、坂本慶一(1975)「ユートピア社会主義の思想家たち」『世界の名著続8 オウエン サン・シモン フーリエ』中央公論社

[2] pp79

ギャラリー
  • 1-3.実践型コミュナルリビングの歴史的経緯とその概要
  • 1-2.ユートピア(空想)型コミュナルリビング