コミュナル・リビング(Communal Living)を考える

高齢化・人口減少社会における新しい暮らし方、共同体的な暮らし方(コミュナル・リビング)について、さまざまな視点から考察します

3-1-4.心境同人(奈良)

 心境同人は、昭和15年にその活動を開始し、その後90年を経た現在も社会福祉法人心境荘苑として活動を行っている組織である。創始者は尾崎増太郎。

 心境同人の発足経緯はいささかユニークである。元々ここは特定の理念や信仰に基づいて設立されたものではなく、「村八分」という今では耳にすることのない村落共同体での出来事がきっかけとして生まれたものである。心境同人が生まれた所は奈良県宇陀という土地柄、地元住民の多くは天理教信者が殆どであり、尾崎増太郎自身も熱心な信者であったが、自分の娘が難病となったことをきっかけに、信仰に疑義を抱くようになる。その結果、同じく疑義を唱えた数人の仲間とともに彼は村八分の憂き目にあう。それをきっかけで始まったのが、仲間達との共同体生活であった。農業生活を維持するために共同で籾摺機、脱穀機を購入し、炭焼きも共同作業化し、炊事、食事、風呂なども共同化、さらには家畜も共同管理となった。戦後は、農業に加えて畳床製造を共同事業の柱に据えることで生活が安定した。

1967年からは、奈良県知事からの依頼もあり、新たに知的障害者入所更生施設を開所。知的障害者の就労支援施設としての性格を強めていき、積極的に障がい者就労を採用し、共同生活雇用の道を深めていった、現在は名称を心境荘苑と変え、障がい者支援施設、グループホーム、就労支援センター、相談支援センター、地域密着型特別養護老人ホームなどの障がい者に関する一大支援センターとなっている。[1]



[1] 水津彦雄 1971 日本のユートピア 太平出版社 ,心境荘苑サイト(http://www.shinkyousouen.or.jp/outline/

 

3-1-3.一燈園(京都)

この他、明治後期から昭和初期にかけて生まれた日本型コミュナルリビングとしては、1913年(大正11)に設立された一燈園(京都)、1940年(昭和15)設立の心境部落(奈良)、紫陽花邑(奈良)などがある。

 一燈園は、創始者西田天香による「おひかり(神・仏・大自然)」という独自信仰に基づくコミュナルリビングである。大正時代に発足したこの組織は、一般、企業からの多くの賛同者を得て現在も活動を活発に行っている。

1872年滋賀県に生まれた天香は、北海道石狩の原野開拓、断食苦行、路頭行願などを経た後、30代半ばに独自の信仰思想にたどり着く。それは、「人間の生命は自然からの授かりものであり、生きようとしなくても生かされているものである。自然にかなった生活をすれば、人は何物をも所有しないでも、働きを金に換えないでも、許されて生かされる」[1]というものであり、こうした信条に基づき、つねに懺悔の心を持ち、無所有奉仕の生活を行う場が一燈園なのである。

 一燈園の活動内容を示す最も特徴的なものが六万行願である。修行の一環として、他人の家の便所掃除をさせていただく事を示し、自己の誇りやプライドを捨て、他人の為に尽くすことを重なることで、己の心を清く改めるのが目的である。

 共同生活の場は、1930年から京都市東山区山科の地に営まれている。1955年には一燈学園を開設。現在は小学校から高校までの一貫教育を行う学校法人燈影学園として活動を行っている。「無一物無所有」という一燈園生活の基本を忘れずというあり方を宣光社と呼び、こうした応用生活の可能性を研究、開拓するところとして一般財団法人光泉林が設けられている。光泉林の活動としては、一燈園生活者のための平和を祈る施設の提供、托鉢先の提供、生活の記録・研究、教育と福祉の貢献などを行っている。



[1] 水津彦雄 1971 日本のユートピア 太平出版社 ,一燈園サイト(https://www.ittoen.or.jp/

 

3-1-2.有島武郎「樺太共生農園」

 同時期、同じく白樺派に属する文学者の有島武郎も農業コミュナル・リビングを構想していた。これは明治政府の官僚であり後に実業家としても成功した父武から相続した450haの農場土地を小作人に解放しようとするものであった。

 彼がそのように考えた理由は、当時、彼が創作不振に陥っていた理由が、親ゆずりの財産にあると考え、それらを精算することで自らの創作を再生しようと考えたためである。

1922年、小作人に対し、彼らが相互扶助的な自治組織を結成し、農地を共有することを前提に無償解放を宣言。翌年彼は死去したが、1924年には北海道狩太村(現ニセコ村)に「樺太共生農團」が設立された。小作人は出資金を出して団員となり、合議制により、土地共有し、資材・機械の共同購入、共同利用、市場への共同・直接販売などを行った。その後、さまざまな苦難を乗り越えたが、戦後1949年の第2次農地解放により解散を命じられてしまう。

ギャラリー
  • 1-3.実践型コミュナルリビングの歴史的経緯とその概要
  • 1-2.ユートピア(空想)型コミュナルリビング