コミュナル・リビング(Communal Living)を考える

高齢化・人口減少社会における新しい暮らし方、共同体的な暮らし方(コミュナル・リビング)について、さまざまな視点から考察します

コミュニティ

ユートピア型コミュナル・リビング

現実に存在しない理想的社会に対する夢想、願望は常に人間の潜在的欲望として存在している。いにしえから数多くの理想的国家や社会が構想され、夢想され続けてきた。

夢想され、創造された理想的な国家や共同体社会は一般に「ユートピア(utopia)」という名で表現される。これは、イギリスの思想家トマス・モアにより1516年に出版された『ユートピア』の書名に由来するものである。

同書を始めとして、プラトン『国家』、ブルタルクス『リュクルゴスの生涯』、トマン・カンパネラ『太陽の都』、ヴァレンティン・アンドレアエ『クリスティアノポリス』、ベーコン『ニューアトランティス』、ジェラード・ウィンスタンリー『自由の法』など、これらに限らず無数の理想社会が語られてきた。

見田宗介(1979)はこれらのユートピアを、①始原のユートピア、②終末のユートピア、③地上のユートピア、④天上のユートピアの4つのタイプに分類している。

  グレゴリー・クレイズは、『ユートピアの歴史』(2011)で、古今東西の神話体系から各種ユートピアに関する小説、SFで描かれた宇宙世界やディストピアまで、膨大なユートピアに関する言説を分析検討し、ユートピアの思索発展を、神話的段階、宗教的段階、実証的段階の3段階に区分している。

 神話的段階に区分されているのは、主にギリシア、ローマ時代に描かれたユートピア理想社会である。そこでは、例えばヘシオドスが『仕事と日』中で語った古代の神々日常やホメーリスが『オデュッセイア』の中で語った地中海のどこかにあるアイアイエー島などがユートピア神話世界として語られた。それらの時代設定はギリシア、ローマを遙か過去に遡った「古代」である。

宗教的段階におけるユートピアの時代設定は「天国としての来世」、「人類誕生の地としてのエデン」など、別位相世界が中心である。イエス・キリスト再臨の可能性に対する熱烈な願望が「千年王国思想」などを生み出していった。実証的段階(実践型コミュナルリビング)は、宗教的段階における宗教的救済としての別位相世界に代わり、世俗的な形でもたらそうとしたものである。この段階においては「人は理想を描くというより、実現することに気を砕き、近代性の頂点を指向する。」ようになるとクレイズは語る。

ユートピア型コミュナルリビングの多くは、その実現を主目的としたものではなく、神話世界の構築や宗教的救済、社会批判などを目的として描かれたものが中心ではあったが、その一方で、これらの中にもその後、実際に実現したコミュナルリビングの萌芽的要素を見出すことができる。

 ルイス・マンフォードは、ユートピアを、「逃避のユートピア」と「再建のユートピア」に分類し、再建のユートピアを「幼稚な欲望と願望に色どられているけれども、(…)それらが実現される世界を考慮している」ものと語っているが、まさにそうした構想が「ユートピア型コミュナルリビング」の中で生成されていったと言えるだろう。

その代表がトマス・モアの『ユートピア』である。この物語は、ポルトガル生まれの資産家であったラファエル・ヒロスデイが、アメリゴ・ヴェスップッチと共に世界の隅々に航海した折に、彼から離れてしばらく滞在したユートピア島の物語をモア卿が聞き書きする形を取ったものであり、当時の英国政府の国家運営方針(例えば刑罰など)の批判を目的として執筆されたものではあったが、そこで描かれたユートピア島では、当時の中世貴族たちによる階級社会とは大きくかけ離れた平等社会が描かれていた。

ユートピア島にある54の都市はほぼ同規模でかつ適度に離れており、それぞれが自立経済圏を成している。都市の中は都市経営を司る部門と農家に分かれ、農業技術の習得と熟練を目的に、一定の期間で役割交換がなされている。職業の種類は、農業を除くと、毛織り業、亜麻織業、石工業などで都市経済を維持するための必要最低限の職種となっている。労働は一日6時間、睡眠は8時間、食事以外の時間は有益な知識の習得が推奨されている。衣服は、男女ともにほぼ共通で、住宅は補修を続けることで長持ちする家に住んでいる。それぞれの家族で生産されたものは、市場の倉庫に運び込まれ、それぞれが必要とするだけ持ち帰ると私有財産制の放棄と共有制度が採用されている。労働者の中から一部の知識人が選抜抜擢され、外交使節、司祭、市長などが選ばれ都市運営が行われる。

私有財産の放棄と共有制度、競争主義の排除、節度のある質素な生活、学問修得による共通の思想の獲得などの概念は、後の実践型コミュナルリビングの多くが目指そうとした運営のあり方がすでに描かれている。学習の重要性についてはロバート・オウエンによるニュー・ハーモニーの思想とも共通するものである。


なぜ、今コミュナル・リビングを考えるべきなのか

人は共同体に属する

人間は社会的動物として各種の共同体に属し、社会関係を築きながら生活を営む。一般的に現在の日本社会において、個人が信頼する強固な共同体のひとつが、家族や親族である。個人が、家族や親族と認識する範疇は、人により様々であろうが、かつての農村共同体社会から現在に至るまで、家族、親族がひとつの共同体の基礎単位として、養育や居住、生計の共同化、病気や介護になった場合のケアなどが行われている。家族、親族は現代においても、個人が生活を営む上での重要なシェルターのひとつである
家族は、日本の高度成長期においては、夫は会社で家計収入を得、妻は専業主婦として子供の養育や家計を支える役割を担う、いわゆる専業主婦モデルが主流であった。

これ以外にも、時代の変遷に応じて各種の共同体が存在した。前近代農村社会においては、集落単位での生産や相互扶助が行われる村落(地域)共同体が大きな役割を果たした。近代社会となり、産業化が進行し、都市部への人口移動・集中が進む中で、日本は村落共同体に代わる役割の一部は、会社共同体が果たした。日本が高度経済成長を果たした
1950年代後半以降からバブル経済が崩壊する1990年頃まで会社共同体は、終身雇用制度、利益の社員還元、充実した福利厚生制度など、従業員重視の政策を採用することで、社員の高い企業ロイヤリティを生み出し、会社と社員が一体となり高度経済成長の日本を支えていった。企業家族運動会や社員旅行などが頻繁に行われることで、社員は企業との精神的一体感を深めていったのである。企業経営者側からも共同体としての企業の一体感を深めるアプローチがなされた。例えば、創業者稲森和夫氏が率いる京セラは企業理念として「大家族主義」を掲げていた。

日本の高度経済成長時代において、個人を取り巻く共同体として、こうした家族、会社などのゲマインシャフト共同体が、一見良好な役割を果たしていたように見えたのである。
しかし、一見強固に見えたモデルも、1980年頃から次第に綻びが見え始め、共同体そのものの脆弱化、内実の変化、さらには機能不全となるケースがしばしば見られるようになってきた。

 

共同体(ゲマインシャフト)の揺らぎ

 

  そのひとつが家族(共同体)の存在の揺らぎである。血縁や婚姻を基礎とする家族を共同体として捉えようとすることについての限界は、既に多くの識者の指摘するところである。この動きは、日本が成熟社会を迎えた1980年代からさまざまな形で表出してきた。1990年代における家族社会学の中心主題は、まさに家族の再定義問題が中心となった。

この時代に家族再定義の必要性に迫られたのは、従来一般に考えられていた「居住および生計を共に営む人たちの相互ケア」という家族概念が、実際の家族のありようと齟齬を来す局面がしばしば見られるようになってきたためである。そのひとつの事例が、家族を構成する個々人の孤立や、共に暮らしつつも相互コミュニケーションが不全となる個族化の動きである。こうした動きを見て、上野(2008)は、家族の客観的な定義は、ほぼ崩壊しているとして、むしろ「ひとびとは家族を何と考えるか」というファミリー・アイデンティティ研究の重要性を指摘し、家族の臨界点を明らかにしようとした。[2]

 森田芳光監督による映画『家族ゲーム』(1983)で話題となった、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」さながらに、家族が横一列に並び食事をとるシーンは、まさにこの時代に進んだ家族相互の孤立、コミュニケーションの不全を象徴的に表しているものであった。

 家族類型の構成比において、3世代世帯から核家族へ、さらには単身世帯が最も高い構成比を示すように家族構造が変化し、かつ生涯未婚率の上昇、高齢化が進む中で、今まで家族という共同体がその多くを担っていた居住や生計、ケア(養育・病気・介護)の役割の代替機能を誰が果たすのか、真剣に議論される必要がある。

前近代社会において、家族共同体の機能を補完していたのは村落(地域)共同体であった。しかし、これについても多くの識者によって語られるところであるが、村落的生活様式から都市的生活様式への変化とともに、共同体内における人々の繋がりは、多くの村落(地域)共同体内において希薄化した。

会社共同体についても同様である。終身雇用制が実質上崩壊し、会社と個人の関係が従来の一心同体形のウェットな関係でなく、よりドライな関係に移行していく中で、共同体としての会社の存在は従来よりも薄まっている。社員の福利厚生として会社が提供する独身寮や家族寮、休暇施設としての企業保養所もすでに多くの企業で廃止され、企業運動会や社員旅行を実施する企業も数少なくなった。
これらは日本における共同体としての会社を象徴する制度や行事であったと言えるだろう。

 

社会保障制度の機能低下(ゲゼルシャフトの揺らぎ)

 

こうした動きは、テンニースの語ったゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの動き、共同体社会から市民社会へ移行する動きと重なる動きとも言える。産業構造が変化し、高度情報化が進行する中で、我々の周辺社会にあるゲマインシャフト的なものは、徐々にゲゼルシャフト的なものに置き換わって行くのかもしれない。そして、従来、家族や村落(地域)共同体が担っていた役割は、地方自治体や国家が社会制度として代替的役割を果たしていくようになっていったのである。

 その例のひとつが、家族介護である。かつて親の介護の役割を担っていたのは、主に同居する子供夫婦(とりわけ妻)の役割であった。しかし核家族化が進行し、子供たちのみに親の介護を担わせることが事実上困難となった。そうした動きを受け2000年には公的介護保険法が施行され、介護は共同体内部で解決するべきものではなくなった。公的保険制度の導入により、介護は制度化し、共同体から外部化され、社会化されていった。従来、共同体内(ゲマインシャフト)で処理されていた介護は、社会制度(ゲゼルシャフト)として処理すべき課題として転化されたのである。そして介護は、身内のみならず、介護保険事業者がその役割を担うようになったのである。

 しかしその後、公的介護保険法の施行から20年あまりが経過し、高齢化が一層進展する中で、一旦は社会制度化された介護システムの将来像に再び、危険信号が点り始めるようになってきている。その理由のひとつとして挙げられるのは、社会保障費の急激な増大である。高齢者人口が増大する一方で、年金財政、保険財政を支える現役世代の人員は減り続けている。医療保険、介護保険のサステナブルな継続に信号が点るのは時間の問題であった。実際、すでに地域包括ケアシステムという名の元に、従来、要支援介護者を対象として行われていた日常生活支援事業の一部を、総合事業として、地域自治内における互助・共助の仕組みに回帰させようという動きも見られている。これは、いわばゲゼルシャフトからゲマインシャフトへの再度先祖帰りのようにも見える。しかし、社会構造そのものがすでに大きく変節している中で、そうした地域の互助に頼ろうとするシステムの回復、再構築は果たして可能なのだろうか。こうして再び、頼りたいと考えられているゲマインシャフトの回復に光明を見出すことは出来るだろうか?


『万引き家族』に見る共同生活体の可能性

近年における「家族」の揺らぎを極めて端的にあぶり出したのが、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した映画『万引き家族』(是枝裕和監督・2018)である。同作は現代日本社会のもつある種のゆがみを表現するとともに、家族という組織形態のもつ本質的な意味を改めて問いかける際めて優れた作品であった。

都会のビルが密集する地区、その谷間にある古びた一軒屋に暮らすのが、祖母の初枝(樹木希林)と、息子の柴田治(リリー・フランキー)、妻の信代(安藤さくら)と息子の祥太(城桧吏)を中心とする一家である、信代の妹亜紀(松岡茉優)も同じ屋根の下に暮らしている。

家計はきわめて苦しい。治は日雇いの工事現場、信代はクリーニング店で働くものの、ともに生きることに要領の悪い二人は、なかなか仕事も安定しない。唯一の家計の支えは初枝の年金である。しかし、それでも家計が成り立たない一家は、治と祥太が組んでスーパーで万引きを繰り返すことで生計を維持している。亜紀も風俗でバイトしている。あるとき、治は祥太と帰宅途中にアパートのバルコニーで震えている一人の少女じゅり(佐々木みゆ)を見つけ自宅で保護するが、児童虐待の気配を感じた家族はそのままじゅりを家族の一員として受け入れてしまう。

しかし、物語が進むにつれて、柴田家のメンバーはじゅりだけでなく、誰一人として血縁、婚姻でつながっていない疑似家族であることが次第に判明してくる。それぞれ貧困や家庭内不和に苦しむそれぞれが、さまざまな契機により初枝の家でともに暮らすことになったのだった。貧しい暮らしだが、笑いが絶えない。他人同士でありながら、心が強く繋がっている人間関係を築いていることを示すシーンが多数現れてくる。

 本作では、初枝が死亡後も生計を維持するために年金の不正受給を続けていたことが、最終的に発覚することで、この疑似家族関係は崩壊していくわけであるが、本作を通じて我々に訴えてくるのは、本質的な意味での「家族の絆とは一体何か?」という問いであった。

 是枝自身も、本作を思いついたのは、死亡した親の年金を、申告せず不正受給していた家族の事件を知ったことがきっかけであり、一方で、震災以降、世間で家族の絆が連呼されることに居心地の悪さをおぼえた。そこで「犯罪でつながった家族の姿を描くことによって、あらためて絆について考えてみたいと思った」と本作の製作動機を語っている。また、是枝裕和監督の映画作品には、他にも「家族」の本質的意味を問う作品がある。「そして父になる」(2013年)は、出産時に子どもを取り違えてしまった家族の苦悩と困難を描いた作品である。「家族は血だ」と語る主人公の父親、同じく「夫婦だって情が沸けば家族になるのよ」と対比的に語る母親の言葉が印象的であった。

 さて、『万引き家族』に見られる社会の最底辺からかろうじて転がり落ちないために、疑似家族を形成したことが、逆に本来家族が持つはずであった親密な信頼関係(親密圏)を構築するというこの逆説的な物語から我々が得られる教訓は一体何であろうか。その意味を、本論ではコミュナル・リビング(共同生活)の系譜を通じて考えてみたい。

ロバート・オウエン「ニュー・ハーモニー」

ロバート・オウエン(1771-1858)が、1825年に米国インディアナ州に設立した共同体「ニュー・ハーモニー」は、信仰由縁ではなく、理想的な労働環境や生活環境の実現を目的として設立された世界初の共同体であった。しかし、当初の壮大な構想とは裏腹に種々の問題が生じることにより、「ニュー・ハーモニー」は1828年には早々とその終幕を向かえる。

しかし、わずか3年とは言え、実際に人々が集う生活の共同が一時的に実現したのである。ロバート・オウエンが「ニュー・ハーモニー」で目指した協同体はどのようなものであったか、その姿を辿ってみたい。


ロバート・オウエンは、少年期より実業の世界で鍛錬を重ね、若い頃から商人として頭角を現していった。オウエンが活躍する当時のイギリスは、ジェームス・ワットによる蒸気機関を契機とする第一次産業革命がまさに進行する時代。オウエンは、その産業革命の中心産業であった繊維産業において、その能力を発揮した。当初は卸・小売商人として、その後は紡績工場支配人、および経営者として彼はは大いに手腕を発揮し、事業的成功を収めた。

一方、紡績工場の経営を通じ、生産性向上を目的にオウエンは各種の経営改善アイデアを構想、積極的に事業に取り入れていった。それらの改革アイデアは、とりわけ1800年から28年間に渡り彼が統治した1700名の従業員をかかえるニュー・ラナアック工場で遺憾なく発揮された。従業員の就労環境改善、地位向上に係わる一連のアイデア、例えば、工場内での福利厚生施設の設置、厨房と食堂の協同化、労働者に対する新教育、世界最初の幼稚園に代表される福祉政策などの構想が実践された。


1815年に出版された『工場制度の影響にかんする諸考察』で、オウエンは初めて共同社会の創設に関する構想を発表した。同書において、オウエンは急速に進む工業化の進展が国民の性格形成に悪い影響を及ぼすようになっていると主張。「機械使用による人間労働の意気低下」の打開策として、産業資本家社会ではなく、共同社会による「一致と協同の村」を創設すべしと主張した。ここで彼が主張したのは、産業資本家は私有財産を捨て、工場運営から得られる利益を配分すべきという、その後の共産主義にも繋がる提案であった。

この思想が、後にオウエンが、「ユートピア社会主義者」と呼ばれ、また同時に「協同組合の父」と呼ばれる流れに繋がっていくのである。

日向新しき村に行ってみた


20195月某日、宮崎に所要の際、折角ここまで来たのだからと、翌日レンタカーを借りて日向新しき村を訪れてみた。Google Mapで検索してみると、宮崎市内から北へ約60㎞、東九州自動車道を経由して約1時間強の場所だ。

東京で1時間というと、さほど遠い感じはしないが、宮崎で1時間はかなり遠くまで来た感じがする。

宮崎西インターから東九州自動車道に乗り、ほぼ一直線に進んでいくと、周りに見える山々が、次第に濃い緑に変化していく。高鍋インターを降りてからは、小丸川沿いの道を遡っていく。

民家は次第に存在が薄くなり、人里離れた山間の道を蛇行しながら進む。「日日新トンネル」「友情トンネル」という名の実篤由来名称のトンネルを通り過ぎれば、川向こうに日向新しき村を望むことができる川原ダムに到着する。初めての地ということもあり、相当辺境の地までやってきたなあ、というのが率直な感想だ。

UNADJUSTEDNONRAW_thumb_1122



大きく内側に蛇行する小丸側に突き出す半島のように日向新しき村はある。たどり着くには、川原ダムの先にある橋を渡って、大回りして行かなくてはならない。突き出す半島の足下部分は小さな小山越えの一本道。ここで俗世と縁を切り、別世界に突き進むような気分になる。まるで、宮崎駿監督『千と千尋の物語』の冒頭に出てくるトンネルのような木々の中を進む。

小山を下った一本道の先に、簡素な柵と手前に一本の石柱碑が建っており、「日向 新しき村  実篤」と刻印されている。ようやくたどり着いたという安堵感が訪れる。


UNADJUSTEDNONRAW_thumb_1117


柵の先には、ぽつぽつと数軒の民家があるほかには、いくつかの畑、放牧された何頭かの豚たち、木工の作業場などが見える。決して敷地は広いものではない。

畑は休耕中なのか、作物は見当たらない。木城村のホームページには表示されていた「武者小路実篤記念館」も扉を閉ざしていた。草刈りなど作業をしている方はいらっしゃったのだが、もともと観光地として門戸を開いている雰囲気は感じ取れなかった。村のホームページでは、現在2家族、3名の方がこの地で暮らしているという。実際に現地でお見かけしたのは、おそらくその方だったのだろう。唯一、村内を自由闊達に走り回っていたやんちゃな一匹の子犬と触れ合うことができたのが、新しき村での交流となった。



UNADJUSTEDNONRAW_thumb_10fb



UNADJUSTEDNONRAW_thumb_1111




ギャラリー
  • 日向新しき村に行ってみた
  • 日向新しき村に行ってみた
  • 日向新しき村に行ってみた
  • 日向新しき村に行ってみた
  • 逃走/逸脱-教育モデルとしての共同生活体