宗教型コミュナルリビングに次いで1820年代から1850年代にかけて相次いで生まれたのが、ユートピア社会主義者として語られるロバート・オウエンとフーリエの思想に感化されて創設された社会改良主義型コミュナルリビングである。ロバート・オウエンの詳細については、次章で詳しく検討することとして、ここではアメリカにおける社会改良主義型コミュナルリビングの概況のみ記しておきたい。

ロバート・オウエンの思想に感化されて設立されたコミュニティは、さほど多くはない。米国ではオウエンの思想に共鳴したオハイオ州出身のスウェーデン牧師ジョン・ローが先行的に始めたコミュニティ、「イエロー・スプリングス・コミュニティ(YELLOW SPRINGS COMMUNITY)」(1825-1827)とオウエン自身が設立した「ニュー・ハーモニー(NEW HARMONY)」(1825-1827)が見られる程度である。しかし、これらは創設から2年ほどでともに運営の混乱により崩壊の憂き目に遭う。ニュー・ハーモニー失敗後も、オウエン自身は自らの教えを広げつつ、アイルランドやクイーンズウッド(ハンプシャー)、ヨークシャーなどにオウエン主義コミュナルリビング創設を支援する。

一方、フーリエ主義に共感し設立されたコミュニティ数はオウエンのそれを大きく凌ぐ。これは、ジャーナリスト、アルバート・ブリズベンがフーリエを広く紹介した影響が大きい。1840年から1846年までの間に25のフーリエ主義共同コミュニティが創設された[1]しかしながらそれらの殆どは創設からさほど時期を経ず、オウエンのコミュニティ同様、解散・終了を迎えている。

「ブルック・ファーム(BROOK FIRM)」(1841-47)は、1841年にジョージ・リプリにより、マサチューセッツ州ウェストロクスベリーに設立されたウィリアム・エリー・チャニング・トランスデンタル・クラブの分派であった。このクラブは1841年に設立された教育的クラブで、作業負荷を平等に分担することで、余暇活動や知的な追求に十分な時間が利用できるようになると考えた。その後、1843年にこの組織はフーリエの社会主義思想に大きく影響され、その後はフーリエ思想の実践および普及の場となった。しかし、持続的に活動を維持する収入を得ることが出来ず、1847年にコミュニティは解散した。

「ノース・アメリカン・フィランクス(NORTH AMERICAN PHALANX)」(1843-56)は、フーリエ主義に熱意を持った人々が、1843年に資金を出し合い、ニュージャージー州のレッドバンクの近くに673エーカーの農場を購入し居を構えたものである。農業が彼らの主業務であったが、実際の農業経験者はわずかだった。1844年からここのコロニー・メンバーはフーリエ主義の実践を試みた。1847年には住宅を建て、1854年に火事が襲うまではフェランクスは経済的にも社会的にも成功を収めたが、その後、コロニーは徐々に弱り、1956年にコミュニティは終了した。

「ラリタン・ベイ・ユニオン(RARITAN BAY UNION)」(1853-56)は、ノース・アメリカン・フィランクスよりもより高度な産業、教育、宗教生活を望む人たちがつくった株式会社方式によるコミュニティである。リーダーはクォーカー教徒であり、商人でもあったマーカス・スプリングス(Marcus Spring)。1852年に268エーカーの土地を買収し、53年夏には統一ビルが建てられた。ビルの片翼は学校が占め、もう片方はプライベート・アパートメントで、ビルの真中には共同食堂が設けられた。コミュニティには数多くの文化人、超名人が集った。コロニーは共同生活を強要することなく、家族生活を守ろうとしたが、1856年にスプリングスが株式を一人で買い戻し、プライベートカンパニーにしたことでその試みは潰え共同生活的要素は失われてしまった。

「リユニオン・コロニー(REUNION COLONY)」(1855-60)は、1855年にアントワープを離れアメリカに移住した150名のフランス人フーリエ主義者によるコミュニティであった。フランスのユートピア社会主義者コンシデラントが組織化したテキサス植民地のためのヨ-ロピアン・ソサイエティの援助によって米国にやってきた。1856年に彼らは2階建ての建物を建て、コミュニティキッチン、ダイニングホール、農業が設けられた。しかし、彼らは核家族スタイルを堅持し、共同生活のスタイルを放棄した。1857年には経済的問題が発生し終焉を迎えた。

「シルクヴィル・コロニー(SILKVVILE COLONY)」(1870-92)は、フランスの貴族階級であったアーネスト・デ・ボワゼリー(Ernest de Boissiere)が、1850年代と60年代に米国を訪問。彼は、アルバート・ブリスベン(Albert Brisbane)、エキジャー・グラント(Ekijah Grant)、チャールズ・シアエス(Charles Seaes)と会い、フーリエ・コロニーについて語った。その年、カンサス教育協会から3500エーカーの土地を購入し、コロニーはフーリエ主義と絹製造のコロニーが設立された。1869年に40名のフランスの植民者が必要な労働者として送られた。1870年には、3階建の住宅が糅てられ、150エーカーの土地が耕され、何千もの桑の木が植えられた。しかし、絹製造が採算に合わず、1892年には売却されてしまった。



[1] Jonathan Beecher (1998) Charles fourier the visionary and his world ジョナサン・ビーチャー 福島知己訳 シャルル・フーリエ伝 幻視者とその世界 作品社 pp13