コミュナル・リビング(Communal Living)を考える

高齢化・人口減少社会における新しい暮らし方、共同体的な暮らし方(コミュナル・リビング)について、さまざまな視点から考察します

序章 0-3.共同体(ゲマインシャフト)の揺らぎ

血縁や婚姻を基礎とする家族を共同体として捉えようとすることについての限界は、既に多くの識者の指摘するところであるが、こうした動きは日本が成熟社会を迎えた1980年代からさまざまな形で表出してきた。1990年代における家族社会学の中心主題は、家族の再定義問題が中心であった。[1]


 この時代に家族再定義の必要性に迫られたのは、従来考えられていた「居住および生計を共に営む人たちの相互ケア」という家族概念が、実際の家族のありようと齟齬を来す局面がしばしば見られるようになってきたからである。そのひとつが、家族を構成する個々人の孤立や、共に暮らしつつも相互コミュニケーションが不全となる「個族化」「孤族化」の動きである。こうした動きを上野(2008)は、家族の客観的な定義は、ほぼ崩壊しているとして、むしろ「ひとびとは家族を何と考えるか」というファミリー・アイデンティティ研究の重要性を指摘し、家族の臨界点を明らかにしようとした。[2]


 森田芳光監督による映画『家族ゲーム』(1983)で話題となった、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」さながらに、家族が横一列に並び食事をとるシーンは、まさにこの時代に進んだ家族相互の孤立、コミュニケーションの不全を象徴的に表したものであろう。


 家族共同体のゆらぎのもうひとつの理由は、「3世代」から「核家族」、さらには「単身世帯」という世帯構成の変化にある。その結果、従来「家族共同体」がその多くを担っていた「居住や生計、ケア(養育・病気・介護)という役割の相互代替機能」が低下してしまったのである。


かつて、親の介護の役割を主に担っていたのは、同居する子供夫婦(とりわけ妻)の役割であった。しかし核家族化が進行し、子供たちのみに親の介護を担わせることが事実上困難となった。


こうした動きを受け2000年には公的介護保険法が施行され、介護は共同体内部で解決するべきものではなくなった。公的保険制度の導入により、介護は制度化し、共同体から外部化され、社会化されていった。従来、共同体内(ゲマインシャフト)で処理されていた介護は、社会制度(ゲゼルシャフト)として処理すべき課題として転化されたのである。そして介護は、身内のみならず、介護保険事業者がその役割を担うようになった。またこうした家族介護の問題に留まらず、この時期児童養護や障がい者福祉に関わる各種支援制度なども整えられていったのも、家族というゲマインシャフト機能が低下した結果と捉えることもできるだろう。



[1] 例えば、久保田裕之(2012)「世帯概念の再編非家族世帯と『家計の共同』をめぐって」『年報人間科学』33:27-42.など

[2] 上野千鶴子「家族の臨界 −ケアの分配公正をめぐって−」2008,社会学研究,20(1):28-37

序章 0-2.「コミュニナル・リビング(共同生活)」を本論において取り上げる理由

筆者が「コミュナルリビング」をテーマとして取り上げた問題意識について説明する。

冒頭に述べた通り、人間は社会的動物として各種共同体に属し、社会関係を築き生活を営む。現在の日本社会において、個人が信頼する強固な共同体のひとつが「家族」である。「家族」は共同体のなかの重要な基礎単位として、養育や居住、生計の共同化、病気や介護ケアなどがそこで行われる。「家族」は現代においても生活を営む上での重要なシェルターのひとつである。

「家族」を共同体の最小単位としながらも、「個人」や「家族」のまわりには、これを支えるさまざまな形の「共同体モデル」がそれぞれの時代に応じて存在した。

前近代の農村社会では、集落単位での生産や相互扶助が行われる「村落共同体」が大きな役割を果たしていた。

近代社会となり産業化が進行し、都市部への人口移動・集中が進む中で「核家族化」が進行した。こうした中で従来の「村落共同体」に代わる役割の一部は「会社共同体」が担うようになった。「会社共同体」は、終身雇用制度、利益の社員還元、充実した福利厚生制度など、従業員重視の政策を採用することで社員の高い企業ロイヤリティを生み出し、会社と社員が一体となりつつ高度経済成長の日本を支えていった。企業家族運動会や社員旅行などが頻繁に行われることで、社員は企業との精神的一体感を深めていった。経営者側からも共同体としての企業の一体感を深めるアプローチがなされた。例えば、創業者稲森和夫氏が率いる京セラは企業理念として「大家族主義」を掲げていた。

しかし、1980年前後から「会社共同体」は、経済成長の鈍化に加え、経営効率を重視するグローバリズムの流れのなかで次第にその役割を終えることになる。

加えて、共同体の基礎単位である「家族共同体」自体もその内実が変化し、脆弱化さらには機能不全となるケースがしばしば見られるようになってきた。

序章 0-1.はじめに

人類は社会的な動物である。人間をアリストテレスは「ポリス的動物」と表現し、ユヴァル・ノア・ハラリは、「われわれは群生する動物であるために「想像による共同体」というものを作り出すことができる。この能力のおかげで、われわれはどこに属するのか、そして誰を心にかけて世話するのかといった思考を広げることができる。」(『サピエンス全史』(2016)と語った。人はさまざまな人々やコミュニティや社会と関わり合いを持ちながら生活をいとなむ。そして、本人もそのコミュニティや社会の一員として、何らかの役割を果たす。社会とのさまざまな関係を紡ぎつつ人は生活する。

人は生活を営む中で、何らかの共同体(ゲマインシャフト)や集合体(ゲゼルシャフト)に属する。テンニースは、ゲマインシャフトを「他人の意志または身体を保存する傾向を持っている肯定的な関係によって形成される集団」「すべての信頼に満ちた親密な水いらずの共同生活」として、家族、家、生活、宗教、言語、慣習、民族、農村などを具体的事例として挙げた。またゲゼルシャフトは、「他人の意志または身体を否定する傾向を持つ集団」として、営利、旅行、学術、会社などを事例として挙げた[1]。しかし、がどのような共同体、集合体に属しているかは、時代背景や社会環境により大きく異なる。またそれがゲゼルシャフトか、ゲマインシャフトであるかについても同様である。

例えば前近代社会の日本では、農民は、本家・分家などの親族組織、生産や相互扶助を行う集落の村民、寺社を中心とする檀家などが身近な共同体として意識し、武士層は家や藩を共同体として認識していたのではないか。明治以降の国を頂点とする統治体制が敷かれて以降の近代社会では、国民は「天皇の臣民」として、国そのものをゲマインシャフトと認識することがあったかもしれない。

現在社会に住まうわたしたちが安心を感じ、信頼できる共同体とは、一体どのような存在だろうか。共同体に属することは、運命共同体という言葉に象徴されるとおり、同一の運命や困難を分かち合うことを意味する。共同体に守られることで、人々はそこに「安心」「信頼」、そして「救い」を感じることができる。

その一方、共同体はそこに属する人々に対し、ある種の「価値観」や「思想」を強要してくる可能性も否定できない。共同体はその意味で全体主義的でもある。場合によっては、オカルト宗教のように人々を危険な方向に導いてしまう可能性も否定できない。「安心」と「強要」とともに共同体は存在する。

「信仰」や「宗教」に基づく共同体は、個々人の悩みや苦悩に救いや救済を与えてくれる存在であると同時に、近年の民族紛争に見られるように、宗教観の違いが対立を生み出す場合もある。「家族」という共同体は、両親の愛情に育まれているという安心感を提供してくれる場であると同時に、時としては、父権や母権が子供のアイデンティティ形成を脅かす存在ともなる。このように共同体の存在が提供する価値は極めて多彩で複雑である。

本論においてはそうした多様な意味を持つさまざまな共同体のなかで、人々が血縁や婚姻に寄らず、何らかの形で共に暮らす生活の共同体、「コミュナルリビング」に焦点を当て、その現代的意義と可能性について考察しようとする。



[1] Tonnies Ferdinand1887Gemeinshaft und gesellschft フェルナンド・テンニエス 杉之原寿一訳 ゲマインシャフトとゲゼルシャフト 純粋社会学の基本概念 岩波文庫)

ギャラリー
  • 1-3.実践型コミュナルリビングの歴史的経緯とその概要
  • 1-2.ユートピア(空想)型コミュナルリビング